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なぜ死んではいけないのか?
ひと口に「自己肯定感の低さ」と言っても、ちょっと外に出て遊べば元気になる人もいれば、四六時中死にたいと思っておりその気持ちが何十年と続く人もいます。
僕は後者だったのでとてもよくわかるのですが、後者の人にとっては、さまざまな人の助言はほぼ何の役にも立ちません。
なぜ死んではいけないのかという問いに、この手で納得のいく答えを与えるしかないのです。
さて、なぜ死んではいけないのかという問いに、何人もの哲学者が答えを示唆しています。
例えばキルケゴール。
彼の主著『死に至る病』の冒頭には「人間とは関係が関係に関係する関係だ」と書かれています。
なんのことやらさっぱりわからないと思いますが、簡単に言えば、私たちは生まれながらにして関係の中に投げ入れられているということです。
ここでいう関係とは人間関係のことであり、かつ言語化できないなんらか不思議な存在Xとの関係の2つを指します。
人間関係については、例えば、私たちは生まれ落ちた瞬間から母親と関係を持ってしまっている。家族と関係を持ってしまっている。幼稚園の友達や先生と関係を持ってしまっている。などといったことです。
他方、言語化できないなんらか不思議な存在Xというのは、キルケゴールが言うところの永遠です。
なぜか分からないけれど、崇高な目標に思ってしまう――例えば、町の小さなピアノ教室に就職するのが精一杯という音大生がなぜか、世界的ピアニストに憧れ、私もああなりたいと渇望し、寝食を忘れてピアノの練習に打ち込む、といったような――。
簡単に言えば、私たちの心に宿る「ちょっと神がかった存在」と「肉体を持つこの私」は、なぜか、関係を持ってしまっているということです。
自ら命を絶つとは、これらの関係を自ら断つことを意味します。
それで本当にいいのか? という疑問が、「なぜ死んではいけないのか」という問いに白いYシャツのカレーの染みのように、拭い去りがたくしみついています。
関係というのは、私たちが主体的に持つものではなく、生まれながらにして持たされているものです。つまり誰のものかよくわからないものです。それを自分の手であやめてしまっていいのかという問題です。
いいのか悪いのかという問題は端的に葛藤です。
自ら関係を絶ちたい。いや、それはよくないのではないか。という葛藤。
この葛藤のことをキルケゴールは、端的に「死ねなさ」と表現しました。すなわち、「死に至る病」と表現しました。
葛藤から目をそらし、なんとなく楽しいことをしながら生きるもよし。
葛藤と真正面から向き合って「反抗のセックス」をするもよし。
岡本太郎のように、葛藤を葛藤として作品に仕上げるもよし。
といったくらいの選択肢しか、私たち人間には持ちようがないのではないでしょうか?
ただし、どの選択肢もそれなりに生きるに値するものではないかと僕は感じます。