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不安とはなにか
不安とは可能性のことで、可能性とは無です。つまり不安とは「なにもなさ」のことです。
わたしたちは不安なとき、ある可能性のことを考えています。たとえば、「子どもがこのまま勉強しないと中学受験に失敗するかも」とか。
つまり、不安なお母さんは、子どもが受験に失敗するという可能性を考えている。
あるいは、モテない女子の場合、「このままずっと彼氏ができないと結婚できないかも。セックスもできないかも」と思っている。
つまり、不安な彼女は、結婚やセックスができないという可能性を考えている。
しかし、その可能性は無です。なにもない。起こらない。
なぜなら、不安だからなにか行動を起こそうと思って実際にやったことによって、なんらか人生が動くからです。
不安だから「なにもしない」という「行動」を「起こした」ことによって、実際に中学受験に失敗する、結婚できない、セックスの相手に不自由する、ということです。
ところで、不安とは可能性であり、可能性とは無であると言ったのはキルケゴールという哲学者です。
彼はたとえば、自分の「血」におびえるゆえに不安だった。
両親の「不幸になる悪い血」を自分が受け継いでいることを兄弟のだれよりも自覚していたキルケゴールは、「オレ、結婚したら結婚相手を不幸にしてしまうかも」と不安に打ちのめされていました。また、「オレ、つきたい職業につけないかも」と不安で不安で夜も眠れませんでした。さらには、「36歳になる手前で死んでしまうかも、オレ」と不安で不安でしかたなかった。
そんな胸をかきむしるような不安は、36歳の誕生日の日に消えます。
36歳の誕生日の朝、彼は自分が死んでいないことに気づきます。
「オレ生きてるやん!」
その瞬間、これまでの不安がいっきに晴れました。そして、
「今この瞬間にやったことがすべてだ」と気づきます。
実存(わたしたち人間)は、今こここの瞬間を生きることだけに価値があるのであって、過去を思い煩ったり、未来に思いを馳せても、それはなんの意味もない。
彼はこう気づきます。
しかし、ここからが彼のすごいところですが、不幸は連鎖するとも彼はのちに悟ります。
つまり、わたしたちは「おなじ」失敗を繰り返すのだと――。
あれこれ不安に思うことは起こらない。
しかし、おなじパターンの不幸は起きる。
ということは、自分の失敗のパターンを知ることが重要であって、不安だ不安だと騒いでも意味はないということです。まず知ることが重要。
不安はなにも引き起こさない、心配事は起きない。
しかし、祖父母由来の「おなじ失敗」、これはかたちを変えて繰り返される。しかしそれは「血」が繰り返しているのであって、あなたの意思が能動的に繰り返すわけではない。
というわけで、不安に胸を震わせようと震わせまいと、先祖由来の血があなたに失敗をもたらしますので、それまではどうぞ心穏やかにお過ごしください。
ちなみに本稿はキルケゴールの『死に至る病』と、ラカンの『エクリ』に収録されている「『盗まれた手紙』についてのセミネール」をもとに書かれました。後者の解釈は福田肇先生のそれを参考にさせていただきました。