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「黙食」の向こう側

静岡の至宝「さわやか」の壁にはこう書かれています。

「炭焼きハンバーグは"話食"です。」


この「話食」とは話のネタとして語り合いながら食べたり、食後にSNSに上げて語り合うという意味ではありません。

一対一で集中してハンバーグと向き合い、ハンバーグに耳を傾けハンバーグと語り合い、しいてはそのハンバーグとの対話を通してその奥にいるハンバーグの作り手と語り合うということです。


たぶん。


いや、絶対に。


絶対にさわやかの人はそんなこと考えてないとは思いますが。



例えば一人で映画、ライブとかでもいいですが何かしらの作品を最初から最後まで黙って集中して観るのと、2人で喋りながら観るのとでは感想の深みが大きく変わってきます。



一対一で作品と向き合い、集中して鑑賞したほうがより深く楽しめ、その繰り返しでやがて真価にたどり着けるわけです。

料理も一種の作品ではありますし、そう捉えられる方でしか味わえない深みと真価があります。



料理の中でもラーメンというものは特に、最初から最後までひとりで食べきらないとポテンシャルが味わいきれないものです。


それは「丼1杯のフルコース」とよく言われる器の中の味の組み合わせと完結感、そして時間経過と温度の低下、量の減りに伴う味の変化の激しさという特性によるものです。

二人で2杯のラーメンを交互に食べるのもひとつの楽しみ方であり否定するわけではありませんが、
しかしその食べ方ではたどり着けない美味しさがある以上、やはり基本的には1杯を食べきるのを推さざるをえません。


名だたるラーメンレビュワーはもとより、同業者であるラーメン店店主、店員でも複数でシェアし感想を言いながら多くの店を「こなす」食べ方をしているのを把握しています。


コレクションならそれでもいいですが、その食べ方を続けているうちは他人を最後まで1杯食べきらせ、何度も食べたくなる魔力を持ったラーメンは作れないです。

例えば二人で2冊の本を交互に、しかもページは被らずに読んで2冊読破したとは言わないでしょう。

ところがラーメンに置き換えると、まさにそういう読み方をする人が本を書いているということです。

そんな最後まで読み切ることがわからない人が書いた本なら読み切るまでに飽きてしまうのではないでしょうか。

ひとりで食べきる人でしか作れない味があり、味わえない味があり、知りえない作者の意図がある。

「黙食」の向こう側には素晴らしき世界が待っているのです。

ここまで書けばもうおわかりでしょう。

「炭焼きハンバーグは"話食"です。」


長々と書いてきましたが、やはりどう考えてもさわやかの方はみんなで語り合いながら食べる意味で言ってますね……。

店主の勉強代になります。何かしらのカタチで還元できると思いますので魔が差したらサポートおねがいします。