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「西周」と書いて「にし あまね」!
1829年生まれ、1897年に亡くなる。

「philosophy」を
「フィロソフィー」ではなくて
「哲学」と名付け、訳した人です。
人呼んで「日本哲学の父」

「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」
「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」
「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」…。

すべて西周が訳した言葉になります。

彼が生きた幕末~明治時代には、
日本に無い「欧米」の考え方を
いかに取り込んでいくか?が重要でした。
しかし欧米諸国の思考や概念を
日本人に理解してもらうのは至難の業…。

…難しいけど、やるしかない!
西周はその難しいことをやり遂げた。
日本語で訳して、表現して、説明した。

現代日本で私たちは当たり前のように
「哲学」「心理学」「技術」などの
名詞を使うことができますが、
それは西周の努力に負うところが大きい。

本記事では、彼のキャリアについて
書いてみたい、と思います。

1829年、石見国の津和野藩で出生。
今で言う島根県の津和野町です。

近くには「文豪」森鷗外の生家がある。
もっとも鷗外は1862年生まれで、
三十歳以上も歳が離れています。
藩の御典医の家柄というのは同じです。
(鷗外は文学者、かつ医学者でした)

彼が生まれた1829年は、
1825年に「外国船打払令」が出され
1837年に「大塩平八郎の乱」が起こった
江戸時代の「幕末のごたごた」のあたり。

世の中が変わる…!

そんな中、彼はひたすら勉学に励みます。
油を買うお使いに出る時も、片手に書物。
家では米つきの手伝いをしつつ本を読む。
その学びぶりは『西周の油買いと米つき』
津和野で語り継がれている。

儒学、朱子学を中心に学びますが、
荻生徂徠が説いた
「徂徠学」(そらいがく)にも目覚めます。
これは「実学」中心の学問でした。

この西周の才能を聞き、
津和野藩は医学ではなく
儒学に専念するように!と命令します。
彼は大阪に遊学し、岡山でも学ぶ。
23歳の時には藩主に講義を行うほどに。

…ただですね、1853年、25歳の頃、
とんでもない事件が起きる。
『ペリーの黒船来航』です。
西周、ガツンと衝撃を受けた。

考える。

「欧米列強は強い! 日本は弱い…。
ただこの問題は、黒船や大砲を
手に入れれば解決するような
簡単なものではない。
大砲をただ操ることを学ぶのではなく、
『大砲をつくり操れるような人間』
育てなければいけないのでは?」

西周、津和野藩から脱藩します。

脱藩は犯罪。しかし親戚に罪は及ばず、
「無期限の暇(いとま)を与える」
という処分になったそうです。
西周の志を藩も知っていたかもしれない。
「洋学」を勉強した。
有名な中浜ジョン万次郎にも
英語を学びに行った。

1857年、29歳の頃には幕府の
「洋学学問所」の英語教授の手伝いになり、
1862年には幕府による
留学組の一員に選ばれます。
本当はアメリカに行く予定でしたが、
「南北戦争」が起こっていたため
留学先がオランダに変更になったそうです。

なお、この時に一緒に留学したのが、
榎本武揚(えのもとたけあき)。
後に北海道で蝦夷共和国を作ろうとした人。

オランダで色々な学問を学ぶ。
哲学(当時はphilosophy)についても
カントやジョン・ステュアート・ミルの
思想などをしっかり学ぶ。

1865年、帰国。

帰国後は、徳川慶喜の顧問になります。
外交文書の翻訳や外交交渉役を務める。
同時に京都で洋学塾を開き
「哲学」という言葉を初めて使います。
諸藩から五百人ほどの塾生が押し寄せました。

…しかし1867年、大政奉還。

この時、西周は慶喜に呼ばれて
英国の議員制度や三権分立について
説明しています。
「最後の将軍」徳川慶喜は
「大政」を朝廷に返したものの、
そのまま実権を握るつもりだったのでしょう。

西周の説明を元に、慶喜は
大政奉還後の政治体制を考えた。

後年、1889年「イチハヤク」の年に
「大日本帝国憲法」ができますが、
その20年近くも前にいち早く
「憲法私案」まで考えていた
のです。
…ところがご存知の通り、
「王政復古の大号令」が出されて
慶喜は朝廷の政治から締め出されます。

戊辰戦争が起きて幕府が倒れる…。

1868年、西周は
表舞台から去った慶喜についていきます。
静岡で「陸軍将校養成校徳川兵学校」
(後の沼津兵学校)の初代校長になる。
また『万国公法』という
近代国際法を翻訳した書籍も出す。

「尊王攘夷!」で明治維新パワーを
生み出した新政府も、
この本を読んで、攘夷から開国へ
政策を変えた…
と言われています。
仕える幕府は無くなったものの、
西周は自分の力を
「実学」として使ったんです。

1870年、明治政府に出仕。

兵部省(後の陸軍省)などに属して
近代化の政策に従事します。
1873年には福沢諭吉や森有礼たちと
『明六社』結成!
西洋哲学の考え方を日本語で訳し、
日本に普及させることに注力する。

(その一方で「かな漢字廃止論」を
唱えたりもしています)

少年の頃は儒学、漢学の専門家。
青年以降は洋学、英語の専門家。
両方とも知り尽くしている…。

だからこそ、儒学、漢学しか
学んできていない人たちにも
説明することができた
のです。

『百学連環』という本があります。
Encyclopediaを訳した彼の言葉。
冒頭にはこう書いてある(注:現代語訳)。

『英語のEncyclopediaという語は、
古典ギリシア語の
Ενκυκλιος παιδεια
「エンキュクリオス・パイデイア」
に由来しており、それは
「子どもを輪の中に入れて教育する」
という意味だ。
そこでこれを「百学連環」と訳して
掲げることにしよう』

古代ギリシア語~英語~漢字(日本語)!
営々とつながってきた学問の連環…。
それを訳して、伝えていくのだ、と。

例えば『演繹法』という思考法について、
「猫がネズミを食べる時には
頭から食べる」という例で説明しています。
ある考え方を当てはめて考えていく…。

『帰納法』という思考法については、
「人がご飯を食べる時には
美味しいものを少しずつ食べて
最後には全部食べてしまう」と説明。
具体事象を全部調べて真理に迫っていく…。

『百学連環』ではこのように
欧米流の「物事の考え方」が
西周流の例えによって書かれている
のです。

最後にまとめます。

本記事では「啓蒙思想家」西周の
キャリアを書いてみました。

彼は1897年(明治30年)に亡くなりました。
時代の変わり目に
世界の人たちの思考を自分なりに理解して、
解釈し、訳して、日本に広めた人…。

この令和時代も時代の変わり目です。

世界の思考と日本の思考…。
古い考えと新しい考え…。

その「橋渡し」をする意識、
言わば「西周スタイル」を、
誰もが持つ必要がある、と
私は思ったのでした。

※本記事は以前に書いた記事の
リライトになります↓

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