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レフカダ島のヘルンと松江の節子
ラフカディオ・ハーンという人がいます。
日本名は小泉八雲。こいずみやくも。
イギリス人でありながら日本人となり、
『怪談』などを著して
日本の物語を世界へと伝えた人…。
彼と結婚した人が「小泉節子」です。
戸籍名は「小泉セツ」ですが、
節子の呼び名を好んだ、とのこと。
…縁もゆかりもなかった二人が出会い、
結婚し、ともに暮らしていく…。
本記事では二人のお話を書きます。
1850年、ハーンは
ギリシャのレフカダ島で生まれました。
Patrick Lafcadio Hearn。
パトリック・ラフカディオ・ハーン。
しかし現代ギリシャ語読みでは
「パトリキオス・レフカズィオス・ヘルン」。
「レフカズィオス」とは
「レフカダ島の」という意味のミドルネーム。
つまり『ラフカディオ』とは
出生した島をあらわす名前なんです。
レフカダ島はイオニア海
(地中海の一部)に浮かぶ島です。
バルカン半島南部にあたる
ギリシャ半島の西にあります。
トルコの「オスマン帝国」と
イタリアの「ヴェネツィア共和国」が
互いに奪い合った島だった。
しかしフランス革命後にナポレオンが占領。
後には、ロシア海軍が占領。
さらにその後、イギリスの保護領になる。
トルコ、イタリア、
フランス、ロシア、イギリス…。
列強が狙う重要な島だったのです。
ハーンが生まれた頃には、
イギリスの保護領になっていました。
ハーンの父親はアイルランド人です。
母親はギリシャ人。
軍医の父と、ギリシャ人名士の家の母。
しかし父親はまもなく西インドに転勤となり、
インドでの生活は厳しいだろう、と
ハーンは母とともに父の実家のアイルランド、
ダブリンへ引っ越していきます。
…しかしギリシャとアイルランドとでは
文化や環境、風土がまるで違う。
母は精神を病み、ギリシャに戻ってしまう。
離婚してしまうんです。
そのため、ハーン少年は
両親とほとんど会うことがなかった。
父方の大叔母に育てられていきます。
この人、厳格なカトリック教徒だったので
それに反発してハーンはキリスト教嫌いになる。
アイルランドに伝わるケルト原教である
「ドルイド教」に傾斜します。
…後年に『怪談』を著すのも
このあたりの影響があるのでしょうか?
(10月31日の「ハロウィン」も
ドルイド教の影響がある、と言われています)
1865年、ハーンは15歳の頃に、
事故で左目を失明しました。
それ以来、写真は必ず右側から撮らせて
決して左目を撮らせなかったと言われる。
1866年、父が病死。大叔母は破産…。
1869年、19歳の頃に、
アメリカ合衆国に移民船で渡ります。
ハーンはイギリス人ながら
フランス語も得意でした。
アメリカではジャーナリストとして活躍。
1874年、アメリカで結婚!
「…えっ? 日本人の妻じゃないの?」
そうなんです。初婚はアメリカだった。
しかし1877年に離婚する。
「不景気屋」という食堂も経営しますが
あえなく失敗してしまう…。
「けっこう波乱万丈な人生ですね…。
転居、両親の離婚、大叔母の破産、
移民、結婚、離婚、食堂経営に失敗。
でもそんな彼が、いったい何しに日本へ?」
エリザベス・ビスランドという
ジャーナリストに影響されたから、
と言われています。
彼女は、知り合いのハーンに
「日本は清潔で美しくて夢のような国。
文明社会に汚染されていないのよ!」と
日本の良さをかきくどいたそうです。
彼女のことを尊敬し、憧れていたハーンは
これで来日を志望したと言われます。
1890年、40歳の頃、松江に到着。
この頃に日本から渡米していた
服部一三という文部官僚が、
ハーンを松江の学校の教職に斡旋した。
…この松江で出会ったのが
「小泉節子」という女性でした。
節子は、出雲松江藩の家臣の家の出。
1868年、明治維新の年の生まれで、
ハーンとは18歳ほど離れています。
生後7日で親類の稲垣家に養女に出される。
明治維新により武士、士族は録を失い、
稲垣家も小泉家も没落します。
節子は子どもの頃から働いていた。
18歳の頃に結婚、婿養子を迎えますが、
あまりの貧困に相手が出奔してしまう…。
節子は小泉家に戻る。
「結婚した相手もいなくなった。
小泉家は私が支えなければいけない…」
そこで、アメリカから来日した
外国人の先生がいる、と聞く。
1891年、節子は一人暮らしのハーンの家に
住み込みで家事をして働くことにする。
(ちょっと『逃げるは恥だが役に立つ』の
みくりさんに似ている)
そう、運命に翻弄されつつ、松江の地で
出会った二人は、やがて結婚するのです。
二人とも「怪談話」が好きで
意気投合した、とも言われます。
その後、熊本、神戸、東京、とハーンが
転勤するにつれ、節子もついていく。
ハーンは言語にも文学にも知識が豊かで、
東京帝国大学の英文学講師に就任します。
1896年のことでした。
この頃に日本人として「小泉八雲」を名乗る。
(なお、イギリス政府は
彼の日本国籍取得を許可せず、
二重国籍状態だったとも言われています)
しかし1903年、帝国大学を退職。
この頃の日本政府は、
外国人の講師から、留学帰りの
日本人の講師への切り替えを行っていた。
ハーンの後任は、
英国留学帰りの夏目金之助です。
後の「夏目漱石」ですね。漱石は
「俺が小泉八雲を追い出したんじゃないぞ…
俺のせいじゃない…」と
後々まで気に病んでいた、とのこと。
というのも、小泉八雲ことハーンの講義は、
一度口を開けばたちまちに
教室全体を詩的空気に包み込み、
酔わせてしまうような講義だったそうです。
一方、夏目漱石こと夏目金之助の講義は
厳格で分析的な堅い講義だった。
学生の「八雲留任運動」が勃発します。
「ヘルン先生のいない文科では
学ぶことはない!」と
法科に転籍した学生もいたそうです。
後に「文豪」となる漱石も
教育者としては苦労していたんですね…。
1904年、大学を退職した1年後。
ハーンは東京で亡くなります。
満54歳。後には、節子と
小さい子どもたちが残されました。
しかし、ハーンは遺言状によって
「全財産を妻セツに譲渡する」と
しっかりと書き残していた。
そのため残された家族は、
八雲の著作物の版権や印税などのおかげで、
裕福な生活を続けることができたそうです。
1932年、節子は64歳で亡くなりました。
最後にまとめます。
本記事では
ハーン/小泉八雲と、
その妻、節子の生涯について書きました。
この節子(セツ)をモデルにして
(原作ではなくフィクション)
2025年後期にはNHKの連続テレビ小説で
『ばけばけ』が放映されます。
主人公を演じるのは、髙石あかりさん。
久しぶりにメジャーな女優さんではない
フレッシュな役者さんが起用される予定。
2892人の中からオーディションで選ばれた。
ギリシャ生まれのイギリス人と
松江生まれの日本人…。
どんな運命で巡り合っていくのでしょう?
2025年の秋には、ぜひ
『ばけばけ』にご注目ください!
※髙石あかりさんと
『ばけばけ』の記事はこちら↓
合わせてぜひどうぞ!
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