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「新宿」は、新しい宿、と書きます。

「直訳すれば、ニューホテル…。
新しい宿が、さぞ
たくさんあったんでしょうね!」

「旧宿」ではなく「新宿」です。
さあ、お考えいただきましょう。
なぜ、新宿は「新宿」なのか?
どのようにして大都会になったのか?


…実は、この街の歴史には、
二人の「きへい」と呼ばれる人物が
大きく関わっている。
本記事ではこの二人を軸に、
新宿の歴史の一端を紐解きます。

東京駅を山手線の東の中心、とすれば、
新宿駅は山手線の西の中心。

駅の利用客は恐ろしいほど多く、
「世界最多の駅利用者数」として
ギネス世界記録に認定されています。
一日当たりの平均乗降者数は
およそ「300万人」と言われる。
途方もない人の数、ですよね…!

JRだけでなく私鉄、地下鉄の駅も
乗り入れている一大ターミナルです。
ものすごく広い駅はさながら
ウィザードリィディープダンジョン
駅の近くは日本有数の繁華街。
まるでファイナルファイトのような
圧倒的な雄叫びと都会が広がる…。
(昔のゲームの名前で例えて、すみません)

…ただ、もちろん、昔からずっと
都会だったわけではない。
江戸時代にはそもそも鉄道駅がない。
宿場町として栄えた。
それも「新しい宿場町」!

なぜ「新」なのか…と考えるためには、
「江戸時代の幹線道路」すなわち
『五街道』を思い浮かべる必要があります。

五街道。ごかいどう。

日本橋を起点として、
「東海道」「中山道」「日光街道」
「奥州街道」そして「甲州街道」が伸びる!

東海道は、今の東海道新幹線、海岸沿いです。
一方、中山道は内陸。軽井沢、木曽路方面。
日光街道は日光、奥州街道は東北へ。
甲州街道は文字通り甲州へとつながる。
甲斐の国、今の山梨県へ。

江戸時代の移動は原則「徒歩」です。
歩く。歩いたら、休まなければいけない。
宿場町、休憩処が必須なんです。
ところが「一番最初の宿」まで
甲州街道だけ、ちょっと遠かった…。


東海道の「品川宿」。中山道の「板橋宿」。
日光や奥州の「千住宿」…。
これらは日本橋から近かった。約4キロ。
でも甲州街道だけは「高井戸宿」まで
行かなければいけなかった。約16キロ!
16キロ歩かないとじっくり休めない。

「…日本橋と高井戸宿の間に、
『新しい宿場町』をつくろう!」

そう考える人たちが出てきたんですね。
1697年、浅草の名主たちが同志を集め、
『新しい宿場町』開設を幕府に願い出る。

その中心人物が「高松喜兵衛」でした。
たかまつきへい。一人目のKIHEI。
浅草は千住宿に近い。
喜兵衛も千住宿の賑わいを見ていたはず。
「宿場町…、儲かる、やろう!」と思った。

幕府は5,600両の上納金を条件に、
宿場町をつくることを許しました。
信濃の高遠藩、内藤家の土地などを
幕府に返上させ、街づくりの用地を確保。

内藤さんが住んでいたこの地には
すでに「内藤宿」がありました。
それとは別に新しく作る。ゆえにこの街は
「内藤新宿」と呼ばれるようになる…。

『新宿』の始まりです。

「甲州街道の新しい宿場町…。
じゃあ、ここからどんどん
『新宿』は繫栄していったんですね!」

…それが違うんだな。実はこの内藤新宿、
幕府により「廃止」させられています。
1718年。開設からわずか20年ちょっと…。

「…え?」

新しい町、宿場町ができますと、
ビジネスを一発当てようと、
妖しい商人たちが寄ってきがちなのです。
詳しくは書きません(書けません)が、
内藤新宿はそんな人の溜まり場になる。

1718年は「江戸幕府の中興の祖」と
呼ばれた、あの将軍の治世です。
八代将軍、徳川吉宗!
1716年から始まる『享保の改革』…!

表向きの内藤新宿の廃止の理由としては
「甲州街道は旅人が少なくて不要である」
というものでした。しかし実際には、
「風紀取り締まり」の一環として
廃止された、という説もある。
若干、いかがわしかった。

こうして、内藤新宿は、廃れた。
再開されたのは、何と1772年のこと。
50年以上も「新宿」は無かった。

将軍は代が替わり、第十代の徳川家治。
権力者は「田沼意次」になっていました。
田沼は「がんがん金を使え、回せ!」の
人ですから、一大消費地となりそうな
内藤新宿復活の機運も高まっていた。

この再開で街に賑わいが戻ります。
新宿の繁栄の恩人の一人、田沼意次…。

ただ、江戸時代が終わると、
新宿の武士の土地には住む者がいなくなり、
また荒廃していきます。
大蔵省が広大な敷地を買い取る。
「海外から持ち込まれた動植物を国内に
入れていいかどうか」の試験場にする。
内藤新宿試験場です。
これが今の『新宿御苑』…。

一方、1885年には
宿場の西の外れの角筈(つのはず)の地に
「新宿駅」が開業します。
当時は西の外れの農村に過ぎない。
一日の利用者数は50人ほど。
(これが今では300万人…)

「新宿駅って出来たばかりの頃は
寂しかったんですねえ。
でも、なぜそれがディープダンジョンに?」

1923年に起こった「あれ」が契機です。
関東大震災!

地盤が弱かった都心、銀座や浅草は
壊滅的な打撃を受けます。
一方、武蔵野台地に近い新宿は
地盤が強く、被害が少なかった。

「…新宿、安全らしいぜ!」

ここから爆発的な発展が始まる。
中央線と山手線が交わる新宿駅には
東西南北から人が集まる。地の利はあった。
私鉄も乗り入れる。
利用者や店が日増しに増えていく…。

ただそれがゆえに戦時中には空襲に遭い、
戦後には「闇市」が建ち並んでいきます。

この状況を打破すべく、
ある男が新宿に有名な町をつくります。
『歌舞伎町』です。

つくったのは鈴木喜兵衛という人。
…彼こそが、二人目のKIHEI!
淀橋区角筈一丁目北町の町会長でした。

彼は大地主であった峯島茂兵衛たちを
説得して用地をまとめて、
東京都の都市計画課に復興計画を提案する。

「文化の香り高き健全な街をつくります!」

「ほほう、復興計画の目玉は
『歌舞伎劇場の建設』
ずいぶんと大きな夢ですね!
よし、ずばり新しい街の名前は、
『歌舞伎町』でどうでしょう?」

そのまんま東、ダイレクトネーミング!

都市計画課の石川栄耀は
喜兵衛にこのように提案した。
…こうして1948年、繁華街の代名詞、
『歌舞伎町』が爆誕したのです。
(残念ながら、歌舞伎劇場そのものは
諸事情により作られませんでした)

最後に、まとめます。

本記事では「新宿の歴史」の一端を
私なりにかいつまんで書きました。

◆『内藤新宿』の高松喜兵衛!
◆『歌舞伎町』の鈴木喜兵衛!

奇しくも同じ名前を持つ
「二人のKIHEI」により、
新宿は生まれ、栄えていったのです。

皆様の住む街はいかがでしょうか?
…発展のキーパーソンは誰ですか?

もし皆様の「新宿の思い出」が
ありましたら、LinkedInのコメントで
ぜひ教えてください!

※同じく山手線の駅である、
巣鴨や池袋についてはこちらから↓
『巣鴨プリズンの闇と光 ~どこにあった?~』↓

※『ウィザードリィ』って何ですか?
と思った方はこちらの記事を↓
『ウィザードリィ、狂える王の試練場』

※『ディープダンジョン』とは
1986年に発売された
ファミコンのディスクシステムのゲームです。
新宿駅の地下を歩く私の心象風景は
こんな感じです↓

※ちなみに『ファイナルファイト』とは
1989年にカプコンから
アーケードゲームとして発売された
アクションゲームです。
シリーズ化され、様々な続編が作られました。
メトロシティを舞台にして、
市長のマイク・ハガーや、コーディー、
ガイなどが突き進んでいきます↓

※江戸時代の「五街道」は
こちらから確認できます↓

合わせてぜひどうぞ!

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