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清少納言は、私たちの中で生き続けている。
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2024年の大河ドラマは「光る君へ」であった。平安を題材とした大河ドラマは珍しいということで、世の中では(少なくとも私の周辺では)大変盛り上がった。世間でも割と評判はよかったように思う。そのおかげか、平安文学とりわけ『源氏物語』に関する書籍や平安貴族の文化を知る書籍の出版や、関連コンテンツの発信が増え、大いに盛り上がったように感じる。
少なからず古典に関わっていたものとしては、この盛り上がりは大変喜ばしいことであったし、ドラマ自体も大変楽しみながら見させて頂いた。ある種お祭り的な盛り上がりではあるから、さめてはいくものだとは思うが、一過性のものとして終わるのではなく、古典文学に対する注目や興味が脈々と受け継がれて行ってほしいとは思う。
とはいえ、大河ドラマを見る層がそもそも限られているし、「光る君へ」の視聴者の多くは、少なからず古典に対しての興味関心をお持ちだったケースが多いのではなかろうか。学生時代に古典が大嫌いだった、謎の呪文を暗唱・音読させられた、古典なんて学ぶ意味が全く気わからない(私自身もたくさん教壇で聞いた古典への不平不満が思い起こされる)……と思っている方々は、全く興味も持たなかったに違い。
いや、もしかすると、一部の方々は、学生時代は嫌いだったが今になって興味をもってくださった。また、「光る君へ」をご覧になって、『源氏物語』やその周辺に興味をもち学んでみたくなったということもあるかもしれない。それであれば、非常に喜ばしいことである。
いずれにしても、あなたが古典を好むと好まざるとに関わらず、私たちの中には、古典が生きていて、脈々と受け継がれてきていることは間違いの無いことだ。これがこの後もずっと受け継がれていくのが、そもそも受け継いでいくべきなのかという問題はあるにせよ。
先日、用事があって、歩いていたら、ある広告の前で足が止まってしまった。
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渋谷で見つけたairbnbの広告である。この広告を見た多くの人が、『枕草子』の序文を思い浮かべるのではないだろうか。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる 雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。……(以下略)
ここでは現代語訳は省略するが、多くの人がかつて学校で習い、暗唱もさせられた本文だろう。古文の一節としては、最も有名と言っても過言ではないかもしれない。その時、どんな感慨を頂いたかは人によって様々だろうが、この広告は多くの人の記憶に、『枕草子』が生き続けていることを前提とした広告表現だ。日本の四季折々の多様な魅力を伝えるものとして機能している。
清少納言は、「春はあけぼの」「夏は夜」だけを書いたわけではなく、当然前後に文章があるわけだが、我々はこの短いフレーズだけからでも、(人によってどれだけ覚えているかは別として)四季折々の魅力を想起できるのではないか。もちろん、まったく覚えていない、これって『徒然草』だったっけ?という方もおられるかもしれないが、それでも問題はない。古典であり、四季について何か言っているのだろうと思えるだけでも、十分にこの広告は機能するのではないか。
この広告を成立させているのは、間違いなく、『枕草子』という古典が我々の中に生き続けているからである。様々な時代時代で、それぞれ享受され、重層的に受け継がれてきたこの本文が、現代の我々にも脈々と続いているのだ。『枕草子』の成立は千年ほども前である。千年の時を経て今に残っている。この重みを無から積み上げることは不可能に近いだろう。もし途絶えてしまえば、そこで消えてなくなってしまうかも知れない。この千年の時のあいだにも、もし『枕草子』がなければ、誕生してなかった表現や物語や言葉が、数え切れないほどにあるのではないか。この広告のように直接的なものから、意識してか無意識かは分からぬが間接的に影響を受けているものまで含めると、どれほどになるだろう。
『枕草子』に限らず、他の古典にも同様の重みがある。もちろん、残らずに失われたものも数多あるはずで、だからこそ残っているものの凄みはます。また、残っていないものも、なんらかの影響関係の中に属しているはずで、今に残っていないあるいは今はあまり読まれていないからといって、価値が無いということにはならないだろう。
古典は、これからも重層的に読みつがれ、私たちの文化の中に、底の方に、どっしりと残り続けていくのではないかと私は思う。「光る君へ」が終わってしまうのは少しさみしい気もするが、また一つしっかりと、地層が重ねられたのだと感じている。次の大河ドラマは、江戸が舞台だという。江戸は江戸で興味深いではないかと、楽しみにでならない。
そして、私たちはまだまだ古典から学べること、気づかされることが多いはずだ。遠い離れた断絶されたものとして捉えるのではなく、現代と相対化して見ることで、つながりと違いの双方に思いを馳せたい。千年経っても変わらないものへの感慨を深めがちだが、変わってしまったものや違いのほうにも目を向け、その違いの背景についても考えを巡らせて欲しいと思うのである。