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どんなときも『格闘する者に〇』だ 三浦しをんの本を喫茶店で読む

実家近くの若者に人気のとある街に、昔から変わらず美味しいホームメイドのケーキとオリジナルの紅茶がいただける、お気に入りの喫茶店がある。
駅が地下化される工事の影響で線路の反対側は新しい店で栄えたが、こちら側はコロナ禍もあっていよいよ入れ替わりが激しくなり、なくならないでほしいと思うお店もどんどんなくなっていく。そんな中、このお店は休日は予約しないと入れないこともある人気ぶりだ。
昼過ぎに店のある急な階段を上り、満席ではないことをガラス越しに見やって、今日は軽食だけでなくケーキも食べてやろうと意気込んでドアを開ける。
広くはないがオープンになっている厨房とケーキのショーケースを横目に、その先の半円形にくびれた窓際の二人がけの席に進んで、ひとり座った。窓側は明るいが、外は小雨が降っている。狭い道の向かいのビルの1階の古着屋は変わらないけれど、2階3階の店はまたなんの店かわからない、見慣れない看板に変わっていた。
メニューを見たところでランチで注文するのはいつも同じ、スコーンのついたデリプレート。そして、ケーキはキャロットケーキを選んだ。
86歳の母が脳梗塞で倒れて入院するまでは、月に一回くらいは連れ立ってよく行ったけれど、今日はひとり、不動産関連の用事で実家に行く前に立ち寄った。運良く席が空いていたのも、雨のおかげだろう。
ブレンドコーヒーも注文して、電子書籍で三浦しおん著『格闘する者に〇』を読んでいたら、斜め前の壁際の席に、30歳くらいだろう男女が座った。
向かいの彼が意外にもハイトーンな声で、改めてよろしくお願いします、と彼女に向かって言う。
「甘いものが好きってことだったんで、いろいろ調べたらこのお店の評価が高かったから、ここがいいかなと思って。気に入ってもらえるといいけど、でも調べるのも楽しかったですよ。」
みちっとしたワンピースの服を着た小柄そうな彼女は、向こうを向いているからか、声が小さいからか、何と言っているかはっきりわからないけど、ありがとうございます、と答えているようだった。
大きい店ではないから、彼のハイトーンな声が小説を読んでいるはずの私の耳に入ってくる。
敬語で会話してるし前から親しいといった雰囲気ではないから、初めてこの店に来て、そして初めて二人で会ったのだろうと思った。
最初のデートでお昼にこの店に相手を連れてきたあなたのこと、初めてだとしてもとりあえず私は好きだけど。そう彼に対して言いたい気分だ。
私のテーブルに、コーヒーとデリプレートが運ばれてきた。温かいスコーンの他に、コンビーフと卵のチリコンカン風味、自家製ピクルス、鶏むねを使ったサラダは、5品の中から3品選ぶスタイルだ。ああ、やっぱり美味しい。スコーンは外はかりっと中はふんわり、それにバターの良い香りがするんだから。スコーンにはパセリ入のバターをつけて、甘くないバージョンでいただく。


スマホの中の小説の主人公である可南子は、喫茶店でバイトをしながら、厭々就活に励んでいる女子大生だ。地元で有名な代議士の娘で、後妻と弟と立派なお屋敷に住んでいる。今は亡き可南子の母が地元の有力者であり、父は婿養子。家庭は少し複雑だが、父と後妻の子である弟とは仲が良い。父はめったに家に戻ってこないが、戻ってくる時は親類と跡取り会議で揉めるのだった。
可南子は漫画を読むのが大好きだから、出版社への就職を目指している。あの作家が好きだ、こんな雑誌をつくりたい、そんなのおかしい、もっとこうだったらいいのに、内側にたくさんエネルギーを持っている。同時に、世間の真面目な就活学生や女というものに対するイメージには、馴染めずにいる。だけれど、自分が父の跡を継ぐなど絶対にあってはならないという反発心から、嫌だけどどうにか就職しようと奮闘中なのだ。
それと、可南子は、バイト先の喫茶店の常連客の老齢の書道家と、隠すでもなく付き合っている。書道家の西園寺さんは、可南子の脚をいたく気に入っているのだ。二人は歪んでいるようで真っ直ぐに、また通じ合っているようでずれながら、ちゃんと繋がっている。



小説とはいえ、可南子と西園寺さんの距離をちょっと羨ましく思いながら、私はデリプレートを食べ終えた。間をおいてからキャロットケーキにフォークを通す。
そうだよね、夢しかないよりも、絶対に反発したいことがある方が力って出るよね、と昔の自分を懐かしみながら、しっとりとした生地と優しい甘さ、ナツメグの香りをたのしんでいた。
斜め前の席の彼は、「去年は在宅勤務だけでしたけど今年は週に2回ほど出社していて、」等と相変わらず敬語で話している。あれかな?婚活とかかな?と思っていると、彼らのテーブルにケーキが運ばれてきた。ありがとうございますと大きめに言った彼は、「こちらもどうぞ、あ、もっと取ってどうぞ」と彼女に自分のケーキを勧めた。そして、これまでよく聞こえなかったけれど、ようやくはっきり聞こえた彼女の声は「美味しい〜!」だった。
嬉しいよ私も、また来てね、このお店がなくなるとほんとに困るから。私は心の中で、そう彼女に向けて呟いた。

小説をこのまま読み切りたいくらいだったけれど、そろそろ時間だ、行かないと不動産屋がうちに来ちゃう!と、通りすがりに斜め前の彼女をチラ見するのも忘れて、私は店を後にした。

その後、例によって『格闘する者に◯』は通勤時間に読了。
登場人物それぞれがどうなったのはは書かないけれど。でも物語の中で面白いのは、可南子の高校生の弟だけは、可南子は勿論、父も後妻も友人たちからも名前ではなく、何故か「旅人」と呼ばれていること。良い存在感なんだ。

何でもこの作品が三浦しをん氏のデビュー作なんだそう。たしかに迸る、漲る、といった字が似合いそうな勢いを感じた作品だった。



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