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「名言との対話」8月30日。林述斎「吾が学は終身精微を譲る」


林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日1768年8月5日) - 天保12年7月14日1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者

儒学の家の林家の祖は、徳川家康に仕えた林羅山である。その林家の8代目で、林家中興の祖が、林述斎である。

儒学の教学の刷新、幕府の行う各種編纂事業の主導を行った。また江戸幕府の文書行政の中枢を担った林述斎は、朝鮮通信使の応接を対馬で行う行事の改革にも関わっている。

5代将軍の綱吉は湯島聖堂を建設し儒学は浸透したが、その後の8代将軍吉宗の時代に、理念を重視する朱子学疎んじられ、山鹿素行伊藤仁斎の古学、荻生徂徠古文辞学などが流行した。

田沼時代の世相のゆるみを正そうとした寛政の改革を主導した松平定信儒学のうち、朱子学を正学と定め、農業と上下の秩序を重視した。定信失脚後には家斉は幕府は湯島聖堂から学問所を切り離し、幕府直轄の昌平坂学問所に変更し、1801年に正学復興が完成した。林述斎は大学頭(だいがくのかみ)として活躍する。

美濃岩村藩江戸藩邸で生まれ育った述斎は、同じ境遇で4歳年下の佐藤一斎と兄弟のように育った。この二人で、学問所を盛り上げていった。一斎は陽明学を林家の八重洲の塾で講義した。陽明学は異学の一つであった。朱子学を教えるふりをしているが実際は陽明学を教えているという「陽朱陰王」とうわさされた。その佐藤一斎陽明学が、後に江戸幕府を倒す原動力になっていくのである。

林述斎は、詩歌にも長じていて、『歌園漫吟』という歌集がある。述斎は同時代の詩人の中で福山藩神辺の菅茶山を当代一の詩人として「詩は茶山」としている。

1821年に懇意だった松浦藩の藩主・松浦静山に林述斎が先祖の松浦鎮信の『武功雑記』を書いたことが話題にし、「君もやるべし」とすすめた静山はその夜から筆をとり死去する1841年まで書き続けた。それが『甲子夜話』で、正編100巻、続編100巻、三編78巻に及んだ。

林述斎は現在の文部大臣級の高官として学問所を統括しながら各地の要人と交流したが、「吾が学は終身精微を譲る」と語っているように正学としての朱子学と奉じる立場にあったが、異学の陽明学も黙認していたようだ。どう考えていたのかはわからない。これは今後の私の課題にしておこう。

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