「北の国から」について ~ 印象的な場面のご紹介
20年ほど前にシリーズを終了した「北の国から」というドラマがあります。連続ドラマ時代までさかのぼって、このドラマを楽しんでいます。
特に印象的な場面は初期、それも連続ドラマ時代に集中している気がします。
先日、久しぶりに北海道を訪れ、富良野~麓郷あたりを回ってみました。するとあの場面が思い浮かんできました。それは、あの馬が登場する場面。
その場面のあらすじを少しの解説と共に思い出してみようと思います。
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北海道では、荒れ地の開拓には馬が必要でした。山や林を切り開き、土に埋まった大きな石を掘り起こし運搬する手段として。そのあとの大地を耕す開墾の手段として。しかし、荒れ地の開拓が済み、テクノロジーが発展した現在(当時は1970年代末)となると、馬はその役割を終えていました。
その馬を手放すということは、その大地、いや、人生を手放すのに等しかったのかもしれません。
「北の国から」の舞台、富良野市麓郷地区には、いまだに馬を手元に置いている男がいました。この男性、偏屈になってしまっていて、周囲の評判もとても悪い。
そんなある日、主人公の乗った乗用車が吹雪にまかれ雪の中に埋もれてしまいます。刻々と降り積もる雪。積もった雪の圧力でドアも開けられず、窓もあかない。
集落の面々が方々を捜し歩くも見つけられない。時間だけが過ぎていく。
その時、誰から、あの「馬」を思い出します。そうだ馬を借りよう。
馬を厩舎から出すと、意志を持ったように走り出していきます。馬はソリを引っ張っていて、鈴がついているので「シャンシャンシャン」という音があたりに響きます。
車の中では、もはや諦めの心境の主人公たち。
そんな彼らの朦朧とする意識の彼方から「シャンシャンシャン」という音が響いてきます。
その音は徐々に近づき、埋もれた車の横でその音は消えました。
馬がそこで立ち止まったのです。
その時、馬は何を感じたのか。それは人間にはわかりません。でも確かに何かを感じていた。それは事実なのです。
しばらくたって、その偏屈な男が主人公宅を訪れます。豪雨の中。泥酔して。
曰く、今朝、馬を売ってきたと。生活の足しにすべく、馬を売らざるを得なかった。その胸中は推し量るべくもありません。しかも、馬は自分が売られることを察知したような行動をとったと、その男は語ります。そして、豪雨の中、自転車を駆って夜の闇に消えていきます。
翌朝、その男が河原で亡くなっているのが発見されます。泥酔した上での事故でした。馬を売ることは、人生を手放してしまったに等しかったのでしょう。
その男の葬儀の場。
男の偏屈さ、馬を売るタイミングの悪さなどを残された親族が談笑する場で、麓郷の長老たる人物が語り掛ける。なぜ彼が偏屈になっていったのか。彼が馬を売ったということはどういうことか。諭すように、感情のままに語り続けます。
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という一連のシーン。
この場面がとても印象的でした。
それは、動物と人間の絆を強く描いているから。
実際、ペットを飼っていても犬や猫なりの第6感や、超感覚を目の当たりにすることがたくさんあります。
同じように、このドラマに登場する馬は、開拓時代から苦労して、生活を共にしてきた、家族以上のつながりがありました。それはしっかり、心で結びついていた。
だから、フィクションとはいえ、フィクションではないと思うし、馬を失った後の男の生き方もまた、真実だったんだろうと思うんです。
北の国の開拓史。
富良野以外でも、北海道各地で明治初期から開拓は行われてきていて、その思いはそこに住む我々にも染みついているような気がします。
自分の祖父の家や、その近くの集落にも、馬がいた時代があります。それも遠くない過去。1980年代の話です。その馬たちもまた、それぞれの人生の伴侶となっていったのでしょう。
生物や自然との共生。自然から離れては生きていけない。
そんなことを思い起こさせてくれる場面です。
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