作文学習における個人差
1. 作文指導の究極の方法は個別指導
書くことの学習支援に集団指導は似合わない。
書く力を伸ばす学習支援は、学ぶ一人一人に寄り添って、一人一人の実情を見極めながら、その実情に合わせて、文字や表現に関わる具体的な支援を実現しない。
作文指導の究極の方法は個別支援である。
そこで問題になるのは、個人差である。言い換えると一人一人の発達や能力の違いである。それをどう考え、どう受け止め、どう対応すればよいか。
2. 個人差を受け入れる
書くことの学習において個人差が問題になるのは、過程における速度の差と、結果における出来栄えの差である。
際の学習場面では、仕事がはやくて立派な作品を作る子、仕事は遅いけれど丁寧で作品のできは良い子、早くできたけれど作品のできはよくない子、遅くてできもよくない子、など、いろいろな多様な様相が出現する。
が、その差は、これを比較して、ほめたりけなしたりすべきではない。その差は、本人の興味・関心・能力・適性の違いや、場と主体との関わり方から来る意欲・態度の違いに由来するものであり、その時とその場における諸条件から必然的にそのような違いが出てくるのである。
そのような個人差を無くすことが大事なのではない。学習支援にとって大事なことは、個人差を無くすことではなくて、個人差のある一人一人を肯定的に受け入れながら、その一人一人が、個々人のペースで向上するのを励まし助けることである。
3. 結果の個人差
学習者が、自分が作る作品の出来栄えをよりよいものにしたいと願うことは、当然であって問題ない。
よりよい結果をめざして作業したり、練習したり、考えたり、話し合ったりする中で学習が成立するのであるから、それはむしろ必要なことである。
しかし、教師が、結果の出来栄えを問題にし、その優劣をことさらに取りあげることは効果的な学習支援にとって逆効果になる。
優劣を競い合う教室では、他の人と比べてそわそわと浮足立った空気が生まれ、じっくりと自分のペースで学びに専念するという落ち着いた雰囲気が生まれない。
4. 過程の個人差
文章作成の過程にも個人差がある。速度が違う。道筋も違う。
教師は、一人一人違うその過程に寄り添い、個に即して必要な励ましや助けを与える必要がある。教師は、冷たい審査員ではなくて、一人一人と共に歩く学習支援者でなければならない。
そういう学習支援が効果的に行われるためには、授業の形態そのものを大幅に変えなければならない。
学習者全員に一律の課題を与えた場合、その課題を達成するためにかかる時間が一人一人違ってくる。早いこと遅い子の差が出てくる。
時間が足りなくて困る子と、早く終わってしまって時間を持て余す子との両方が出てくる。
全員の速度を揃えようとすると、早い子を待たせるか、遅い子を急がせるかしなければならなくなる。それは、早い子にとっても、遅い子にとってもよくない。焦る子も苛立ち、待たされることいら立って、教室の空気を乱れたものにする。
待たされて時間を退屈することも、せかされてあせることも、どちらも学習活動に専念することを妨げる。待たされる子の心の底に、遅い子を侮る気持ちが生じたり、慢心が生じたりする。
それは、学習活動に専念するという大事な態度を失うことにつながる。学習に専念する態度が失われると、学習の効果がさがる。
助け合い学習と称して、早い子に、遅い子を助けたり、代わりに書かせたり、書き直させたりする教師もいるが、それはよくない。書く力は自分で書くことによって伸びるわけであるから、代わりに書かれてしまうということは、自分が書く機会を奪われてしまうことになる。
遅い子にも自尊心がある。自分が書いているものや書いていることに対して、同じ学級の同じ学齢の子から、偉そうに注意されたり助言されたりすることは、遅い子の自尊感情を損なうだけでなく、遅い子が自分のペースでじっくり考えたり工夫したりする時間を奪い、自分で探究するせっかくの機会を奪うことになる。
私から見るとそれは、恥ずべき妨害行為以外の何物でもない。
そういう行為を、麗しい助け合いと見たり、奨励すべき「学び合い」と見たりする教師もいるようである。そんな教師に私は、人の心が見えないのか!と抗議したい。
5. 個人差はなくならない
学習者一人一人に個性があり、一人一人に独自の育ちのペースがある。
そのペースを無視して、無理に伸ばそうとして手を加えすぎると、かえって育ちを損なうことになる。
その子に合わない指導は、いくら助けるつもりでしたことでも、助けることにならない。
一人一人の育ちの状況を調べて、学年の到達目標に照らして、不足するところを埋めて差をなくそうとすることが、学習者一人一人の育ちを本当に助けることになるかどうかも疑わしい。
人の能力には個人差がある。それが自然である。
個人差をなくそうとすることは、全員を横一線に並ばせて同じ速度で走らせようとすることに似て、速い子にも遅い子にも無理を強いることになる。
一人一人の学習を効果的に助けるためには、個人差をなくそうとする無理をやめて、一人一人の育ちのペースを大事にしながら、個に応じる学習支援を行うことが必要である。
学習支援で大切なことは、一人一人の育ちを助けることであって、個人差を無くしたり縮めたりすることではない。
この学年のこの時期までに到達すべき目標というものを決めて、その到達水準をすべての子に保障するのだというような言い方がなされることがあるが、それは、現実的ではない。
すべての学習者に同一の学力水準を保障すると言えば、聞こえはよいが実際には不可能である。不可能なことを可能と言うのは無責任である。無責任であるだけでなく、人を困らせることになる。人を困らせるだけでなく、自分も困ることになる。
学びの場は、子供一人一人が、自分の学習のペースで向上し、他の人はその人の自分のペースで学習し、自分のペースで向上し、たがいを比べて評価しない境地。早い子も遅い子もそれぞれが、それぞれのペースで学び育つことを喜びあえる学びの場にしたい。
学びの場も、生活の場もそうならないと、共に生きて、共に学び、共に育つという境地は実現しない。
競争意識から解放されて、おのおのが自分のペースで学び、自分のペースで向上することを楽しむような学びの姿勢が、学ぶことを共に楽しみ、生きることを共に楽しむ、おおらかでゆったりした心を生み出す。
個人差をどう考え、どう受け止め、どう対応すればよいか、という問いに対する、私の究極の答えがこれである。