遊ぶために大学行きたい! って、 立派な進学動機だと思う。 よくよく深く考えれば、 ぼくもそうだったような気がする。 建前は、いろいろ述べていたけど。
主体性を育てるなんておこがましい。 と思う。 主体性を育てるなんて言ってる教育者は、主体性を分かってない。 と思う。 主体性!主体性!と叫ぶ人は、主体性が乏しい人なのかもしれない。 と思う。 主体性には、敬意を払うだけで十分。 と思う。 教育者には、それが不十分。 と思う。 いいね! コメントする 送信 シェア
人を変え、世の中を変えるのが、教育である。 という教育観と教師観。 その傲慢さに、もうそろそろ、気付いてもいいのじゃないかなあ。 そして、 自分で学ぶ人の学びをほんの少し手助けする。 自分で育つ人の育ちをほんの少し手助けする。 手助けしながら、自分も学び、自分も育つ。 人にできるのはその程度。 というような、 そんな支援観と支援者観に、 もうそろそろ、移行したほうがいいんじゃないかなあ。 人はだれもが、自分で学び、自分で育つ。 それを支援するのが学習支
7月はじめに行った講演のあとで、ある婦人の参加者から、「先生は奥さんいないでしょ?」と言われ、あまりの唐突さに面食らって、2人います。と答えてしまった。今の妻と、前の妻の2人が思い浮かんだのだ。 そしたら、「先生は、家事を奥さんに押し付けて自分はしたい放題してるでしょ。」と言われた。 なんのことだかわからず、とっさに、掃除・洗濯・食器洗いなどを手伝ってます、と答えたら、「手伝ってるんじゃない!してるんでしょ!」と言われて、「しています」と言い直した。 が、あとで考えると、自分
「怠」という漢字がある。「怠ける」「怠い(だるい)」「怠慢」の「怠」である。 「台」のもともとの意味の中には、「やわらげる」という意味があるようだ。 とすると、「怠」には、心をやわらげる、やわらい心、ゆるんだ心、心をゆるめる、なまけ心というような意味合いがありそうだ。 そう考えると、「怠」は、生きるとか、生き続けるとか、生き残るために、大切なことのように思えてくる。
ひとつずつできることからひとつずつ よくばらずあせらずゆっくりひとつずつ
四日連続で怠け続けてやっと、昨夜になって、懸案だった作業を再開することができた。その作業を、今日(9月4日)になったばかりの深夜に、曲がりなりにも、中途半端だが、仕上げることができた。そして、それを送信することができた。 できたつもりだったが、今朝目覚めて、大事なことを書き忘れていたことに気付いて、それを補充修正した。 その勢いで、ほかの部分も補充修正することができた。 不十分ではあるが、とにかく提出して、この苦しみから逃れることができた。 今回の経験から、次のようなことを感
疲れれば気力が萎える。それが当然。 気力を出そうと焦れば滅入る。 疲れて気力が落ちた状態。 その状態をまず認め、 そして、休んで気晴らしをする。 気力が出ない自分を認め、 まずは怠けることが必要。 今にして、やっと気づいた、怠けの効用。
ネットに連載中の漢字コラム「漢字を楽しく」の第3回目が公開されました。 第3回目のタイトルは「色の漢字見つけ」です。フレーベル館のWeb「保育ナビ」上での連載です。 次のURLをクリックするとお読みいただくことができます。 https://qr.paps.jp/4gzTT
人の世は、 なるようになる。 なるようにしかならない。 できることをする。 できないことをしない。 したいことをする。
国家が示した目標によって学習させ、国が示した評価規準によって学習者をランク付けする教師は、国家に奉仕するロボットになった教師だと思う。 人間教師がすべき大切なことは、人間としての愛情をもって、目の前の子供一人一人をよく見て理解し、一人一人に必要だと思われる支援をすることだと思う。
開拓や開発の真価が、同時代の人たちに、にわかには理解されないという現象は、古今東西普遍の現象だと思う。 開拓の寂しさがそこにあり、開拓の喜びもそこにあると思う。 開拓の勢いは、酷評されたことによって衰えるようなものではないと思う。 真の開拓は、万人にすぐに理解されて受け入れられるようなものではないと思う。 或る開拓的で先進的な国語教育実践に、この思いを捧げる。
自分も宇宙の一動因で、宇宙の動きに影響を及ぼしている。 そんな自分は宇宙と一体。 宇宙に感謝、と言うと、 自分に感謝するような気がして、 ちょっと違う気がする。 社会に感謝、世界に感謝、も同じく、ちょっと違う気がする。 宇宙も社会も世界も、感謝の対象ではない気がする。自分もその中の一人なのだから。 感謝の代わりに、今の私が感じるとしたら、それは、一体感かな? 一体感について来るのが、安心感かな?
立派には見えるが、子供にとって楽しくない授業というのがある。 楽しくなければ実りもない。 その原因として私が実感していることの一つが、子供に求め過ぎるということである。 公開の授業や、実践研究発表を目指して行う授業では特に、立派に見える授業を目指して、子供の出来栄えに、より高くより多くを、求め過ぎてしまうことがあるように感じる。 そしてそれが、子供を苦しめ、教師を苦しめている気がする。 その結果、その授業が、子供にとってつまらなくなり、教師にとって苦しくなるということが、起き
「楽しくない授業は犯罪だ」というお言葉を、昨夜、新宿栄寿司で開催された会で初めてお会いした、笑顔が素敵な女性から、今朝頂戴した! 大共感! 楽しくない授業が、さもいいことのようにされている。 というか、それがよい授業だと言わんばかりに、威張って歩き回っている。 そんな犯罪的な授業を少しでも少なくして、楽しい学びの場にすることが私の生きがいです。 そして、教師にとっても子供にとっても楽しい授業を実現するための、理論と方法を探究し続け、語り続けています。 だから、私の人生、まだま
個読に敬意: 解釈は百人百色 という演題で話します。 9月7日午後、北教大釧路校佐野比呂己教授主催の「国語を学ぶ会(オンライン)」です。 https://www.facebook.com/events/1829920827512910/