教育界における「変容」信仰の罪:「個人内評価」も比べる評価
集団内の人や標準的水準など、他の人と比べる相対評価ではなくて、一人一人の成長を評価する個人内評価を大事にしよう。と言われることがある。
他の子と比べるのではなく、個々人の学習による成長や変容を見ることを大事にしようという主張である。
だがこれも、過去の自分と比べる評価であり、「相対観」に立つ評価観である。と私には見える。
教育ではともすると、過去よりも今、今よりも未来に向けて成長することが大事にされる。成長や変容を目指す学習観であり、学習支援観・指導観・教育観がそこにある。
それを目指してもいいけど、それをチェックして評定して、成長や変容を見える形にしようとすると、苦しくなる。
授業を受けたら作文が上達し、読解力が高まった。ということを証明しようとして、指導前と指導後の状態を比較して、その変容を証明しようとする表が示されることが、授業研究の中で行われることがある。その背後には、成長や変容をしなければならない、させなければならないという思い込みがある。その思い込みが、子どもの成長と変容を証明するために、指導前の事例から、指導後の事例よりも優れた材料を除外して比較し、授業後に確かに成長・変容したことを証明するというようなごまかしを生むことにもなるのではないだろうか。
人はいつも過去より良いことができるわけではない。昨日はできなのに今日はできないということもある。昨日より今日のほうがうまくいかないこともある。上がることもあり、下がることもあり、滞ることもあるというのが、人の成長の本当の姿なのではないだろうか。
人はいつも、指導を受ける前よりも後のほうが向上するわけではない。人は、他の人と交流すれば、必ず変容して成長するわけではない。どんなに違う意見や考えと出会っても、自説を曲げないで守り通すことが大事なことだってある。つまり、変容するということは、学習にとって、必ずしなければならないというほどもものではないのではないか。
昨日より今日、今日より明日というように常に成長し続けなければならないというような、何かに追われる続けている気分では、落ち着いてゆったり学ぶことができなくなる。そんな強迫観念に駆られたような気分では、落ち着いて学んだり、練習したり、上達したりすることを楽しむことができなくなる。
子ども一人一人が、今の自分を肯定し、今の学びを楽しんで、向上すれば喜び、退歩しても自らを許し、疲れたら休んだり怠けたりすることも受け入れて、ゆったり学びを楽しむというような、そんなおおらかで安心できる学びの場が実現するといいなあ。
過去とも将来とも比べないで、今を大事にしたいなあ。そう願う私は、「個人内評価」という評価観からも自由になって、今を大事にしたいと思う。そうすれば、学びはもっと楽しくなり、指導はもっとおおらかになり、学校が、今よりもっと安心できる場になると思う。
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