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あのゲニウス・ロキ ①

2024年 8月8日 木曜


 船に乗りこんだ。船は岸を離れ、エンジンが乱暴に鳴り響いた。高速艇のエンジンはかなりうるさく、「乗船ありがとうございます」流れはじめる九州商船プロモーションVTRの音声はかき消され、聞こえない。汽笛。緊急時の脱出方法についてのVTRは、避難具の使い方の説明を終え、格納場所や取り出し方を紹介しはじめる。けれどやはりエンジン音に邪魔され、われわれは映像をヒントに、内容をなんとなく察するばかりだ。
 突然、客席じゅうに「地震です、避難してください。地震です、避難してください」ヒステリックなサイレンが響いた。VTRが、緊急事態発生のシュミレーションを行っていないとも限らない。
 こういう風に理屈をつけて、自らを安心させようとするのを「正常性バイアス」とか言うんだろう。VTRは終わり、モニターはテレビ電波に切り替わる。いま放送されているTVニュースが映る。「九州地方で大きな地震です。お近くの方は、津波にご注意ください」画面にはおおきく「いますぐ にげて!」のテロップ。われわれは海にいる。逃げることなどできない。


 フランスの小説家、パスカル・キニャールの一族は、代々、フランスとベルギーとの国境ちかくの村に暮らしていたが離散した。原発が建てられることになったのだ。環境はすっかり変わってしまうだろう。暮らしてきた村は、これから、原発職員のための町になるんだろう。それで自ら手放した。
 パスカル自身の故郷はル・アーヴルという港町である。カウリスマキの映画の舞台にもなった。
 この港町で、少年時代の彼は過ごす。そのころのル・アーヴルは戦争による壊滅的な打撃で、すっかり無残に荒れた廃都だった。灰色の港町でパスカル少年は、書物のなかにこそ、人々の生き生きした姿を見出した。60年後、日本の港町が地震と津波で壊滅的な打撃を受けた。加えて、そばの原発で事故が起きた。放射能。
 そのときキニャールは、ル・アーヴルの歴史を思い出した。戦争よりももっと昔、港町はすでに一度、だめになったことがある。津波に襲われたのだ。
 キニャールは、ル・アーヴルで、フクシマを思ってのイベントを行った。
 いいや、それはル・アーヴルのことでも、フクシマのことでもない。過去未来もなく、いつか起こり、また起こり、見出される出来事のことを思ってなされたものなのだ。いつ書かれたものでも、いま読めばいま立ち現れる。それが未来になにかを投げ込む。時間の循環の現場としてのル・アーヴル=フクシマ、このとき両者は、それぞれが別々の土地のままで同じ場所になり、同様に同じ場所になりえる、また別の土地の存在を暗示する。
 大津波でなにもかもだめになってしまったとき、ル・アーヴルの教会には生き残りの村人たちが集まって、祈った。水浸しの床に立てなくて椅子に立つ。
 パスカル・キニャールは、ル・アーヴルに集まった人々とともに、フクシマについてのドキュメンタリー映画をみた。それから、観客に呼びかけた。みなさん、それぞれ、椅子のうえに立ちましょう。椅子に立ち、目をつむり、わたしたちの足元を流れていく水の音に耳を澄ますのです。


 ル・アーヴルに生を受けて70年後、パスカルは70歳になった。作家生活50周年の年でもある。お祝いの旅行をした。五度目の来日である。東京でのイベントを終え、長崎にやってきた。長崎駅そば、出島から出航する高速艇に乗って、上五島にむかった。上五島は、長崎県の西の海に並ぶ五島列島のうち、北方の、おおきめの島である。2024年8月8日、長崎の港で、上五島の有川港にむけて出発する高速艇のチケットを買い、出港時刻を待ちながら、パスカルの本を読んでいたら、これから乗る船便とおなじものに、数年前、彼が乗っていたと知った。

 2024年、8月8日。東京を出て長崎に行く。飛行機をいそいで降りてバスで市内に出て、市内につくやいなや港に走る。ぎりぎりのスケジュールを、なんとかクリアし、船の切符を手に入れる。胸をなでおろし、乗船開始を待って本を開く。今回の「旅のしおり」は、パスカル・キニャールと小川美登里の『ル・アーヴルから長崎へ』。携行し、折々でたらめに読み返すのだ。
 地震のニュースを眺めながら、上五島に着いた。夕方だった。海は見つめ続けられないほどまぶしい。穏やかである。長崎でみる海と違って、島影の少ない、ひろい海。時期はお盆の手前である。港で船の到着を待っていた親戚と合流し、久々の再会を寿ぐ家族たちがいる。彼らを横目に、主要ホテル等をめぐる九州商船の無料バスに乗ってホステルにむかう。日没を眺めに出て、寿司を食って、星を見上げて帰宿して寝る。島内のほうぼうを見学してまわるのは翌日である。翌日は8月9日、長崎に原爆が落とされた日である。

 あの8月9日も、この8月9日も、人間が勝手にノンブルをふっているだけなのに、同じ日なのである。日付は回転扉になって、この8月9日にふみこむと、ぐるりとまわり、われわれを、あの8月9日に連れていく。



2022年 7月27日 水曜

 長崎にゆかりはない。2022年の夏、人に誘われたのがきっかけだった。長崎どころか九州にゆかりがなかった。しかし、元寇・倭寇・遣隋使・遣唐使・鉄砲伝来・キリシタン史など、そういえば歴史の授業でよく見かける地名だった。複雑で急峻な地形のため、海が視界に入るスポットが多い。海のむこうには決まってほかの陸がみえる。熊本や鹿児島、軍艦島も、五島列島も、むこうの岬や半島もある。「島国」という言葉を思い出した。
 ゆかりのない場所に滞在しているのに、あるいはだからこそなのか、「自分が、いま、ここにいる」という実感に貫かれた。暑さのせいかもしれないし、自然の豊かさによるものかもしれない。

 最終日、ひとり長崎市の中心部に残って過ごした。長崎歴史文化博物館に行った。長崎の歴史や文化についての博物館である。
 水がよく、山がちな地域がら、陶器の生産もさかんで、名産品を紹介する一室には一面ずらーっと焼き物が展示されていたが、その展示室の床面は透明なアクリル板であり、発掘されてきた土器類が並べられていた。自分のいるこの場所の、自分の立つこの場所の、足元に、どんな蓄積があるのか。私はいまどんな場所にあるのか。そのことを体に伝える展示室だった。
 原爆資料館に行ってから、爆心地の方面へ散歩する。道に電柱があり、電柱に住所標識があり、「平和町」と書いてある。

 翌年にも訪れた。2023年の長崎には「旅のしおり」として、遠藤周作の『切支丹の里』と、神田千里『島原の乱』を携行し、島原と天草(熊本県だが)をまわった。島原はいいところだった。天草も忘れがたい。


2024年 8月8日 木曜


 それからさらに1年後。飛行機の座席は通路側で、通路を挟んでななめ前に50代の男性が座っている。彼のスマホの画面が嫌でも目に入る。待ち受け画面がタモリの宣材写真である。そんなのはおかしい。
 発着予定時刻をきっちり守った飛行機を駆け降りる。飛行機着陸時刻から十分後に出発するバスに乗る。43分の乗車時間目安をわずかに超えて市内についたバスを降り、おおいそぎで港にむかう。その日最後の船便の切符を買う。販売時間はあと15分しか残っていなかった。
 乗船案内開始までの時間、港のうどん屋でうどんをすする。船は予定通り出航し、その直後に地震のニュースが船内を満たす。

 島は傾斜がすごいですから、自転車だと苦労されると思いますよ。前もって電話で、宿の人がアドバイスをくれていた。ペーパードライバーだし、しかも車しか乗ったことがないんですけど、大丈夫でしょうか。「島にきてはじめて運転したって人も少なくないですよ」「交通量もそんなにないし、信号も少ないし、島の人はみんなあせってないので、あおられたりはしませんから」たくさん励ましてくれて、誘われるままにバイクをレンタルした。運転方法を宿で教えてもらい、試運転がてら、宿の人オススメの、日没を眺めるのによいスポットへむかう。40分ほど原付で飛ばす。運転はふらつくし、中央線も何度も越える。



 湾を見下ろした。日の光はすでに空の奥に吸い込まれつつあった。水面のきらめきもすっかり海中へ畳み込まれ、空も海も同じ色に近づいていく。主張の薄い、濃い青が、遠のいていくように夜にからめとられていく。近くにも遠くにも人はおらず、懐かしく、涼しい。暗闇へと穏やかに移行するこの時間はおそろしいようでもあり、悲しいようでもある。おそろしさも、悲しさも、いずれも「美しさ」の主要な内訳である。
 むこうにみえる岬の先に、ピラミッド型の、特徴的な小島がある。日が落ちていく。小さな湾をはさんだ、むこうの港のあたりで灯されている電気たちが、窓や障子や海のもやに阻まれ、この目に辿り着く頃にはぼんやりにじむ。その港のあたりのどこかで鳴る音楽が、内海をかすかにわたってくる。ドラムやベースの低音に揺さぶられ、空気が振動し、名残がじゃっかんこちらに届く。煙を握りしめるようにしかとらえられない。ふと、なんでもない、昔のことが思い出されたりもする。追いかける間もなく、浮かんでは消えていく。



 そこそこ遠くまできてしまった。宿ではなく、音楽の鳴っていた港までむかう。体がむきだしのまま、時速数十キロを駆け抜け、視界の端で海が凪いでいた。とてもとても暗いのがこわいのは、道路状況が目視しづらくておそろしいのだ。
 町、という印象ではなかった。島に僅かな、比較的平らかな地帯に、光の漏れない家並みがかろうじてしがみついている。そこにひとつの提灯がある。内田百閒の『冥土』という短編を思い出す。
 寿司屋にはいって、寡黙なオヤジさんと、店の手伝いのおばちゃんと、カウンターの端に常連がひとり、野球中継を眺めている。おばちゃんは、昔はよくスキーに行って、スキー旅行のためにいろんなところに出かけて、その頃は今と違ってずいぶん細身だったのに、いまはオヤジさんよりも肥えてしまって。オヤジさんは寡黙ながらも、ときおり口をひらいては、店員さんを紹介する。
 常連さんは五島うどんの会社の人で、営業部時代はよく東京にも行ったという。よく行ったのが東村山、小金井、福生と、僕の暮らしているエリアばかりである。聞けばオヤジさんも、長いこと東京で暮らしていたらしい。島の出身ではあるが、島に戻ってきたのはよっぽど最近だ。口ごもりながら、ぼつぼつ、小さく素早く話すので、うまく中身をつかめない。バイクなので寿司だけつまんだ。
 きた道を戻るのではない。手裏剣型の島の中央部分を、日の入り見物と寿司屋で刻みながら、ぐるっと一周するかっこうになる。ハンドルを握りこみ、きつい傾斜を勢いよくのぼる、その上昇の感覚に引っ張られるように顔をあげれば、一面の星空である。「一面」とはよくいったもので、星が点なのじゃなくて、点みたいな星がびっしり並んでいて空が銀色の面になっている。あまりのことにバイクはふらつき、車道をはさむ石積みを駆け上がる。

 宿に戻り、共用スペースでその日の日記をつける。毛の長い猫が、共用スペースから人間がいなくなるのを待っている。外から入って、外へ出て、それを繰り返す。はやくいなくなんないかな。まだいるじゃんか、ちぇっ。

(つづく)

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