バンコクの家 <旅行記シリーズ>
8月21日、人からもらった桃がもったいなくて、歩きながら食べる。旅行の前日に旬の果物をいただいたんです。歩きながら桃をかじり、指の股に皮を挟むから手はべとべとになる。公園の水場で手を洗う。
機長のアナウンスはサービスがよく、紋切型でない喋り方があたたかい。「今日はこのまま10時の予定どおり出発予定で、まっすぐ、えー、九十九里浜をまっすぐ行って右に旋回、東京湾を横切り、東京ディズニーランドを見下ろして、そのうち右手に鎌倉が、左手に江の島、それから富士山が見えればいいな、と思っております。まあ、雲の状態によります」
3人掛けの一番端の座席だった。隣には女子大生2人組。読書する友人に、もうひとりが尋ねる。「なに読んでんの?」
聞かれた女子大生は、タイトル音読するの恥ずかしいなあ、とためらい、本を閉じ表紙を友人に黙って見せつけた。ぼくは目の端で、やり取りを盗み見る。文庫の表紙に「残像に口紅を/筒井康隆」とある。
飛行機は予定より1時間ほどはやく到着した。現地時間14時、タイ王国の首都バンコク、ドンムアン空港。日本語で「じいじ大好き」と書かれたTシャツを着ている女児がいる。空港職員用の食堂が「穴場スポット」だというので立ち寄った。ぷるぷるの米の麺をすする。「穴場スポット」として名前があるようで、観光客が多い。
二度目のタイである。しかも行く先には、今年から駐在のはじまった昔からの友人がいる。心持ちは未知の場所へのわくわくではなくて、もっと親密なものだった。加えてこの一年で、タイについて少し学んでいた。民間信仰である道の仏塔について、あるいはボーイスカウト・ガールスカウト文化について。たとえばこれらを知ってから到着すると、仏塔やスカウトがしっかり目に入る。去年もあったはずなのに、目はとまらなかった。
荷物はリュックひとつだけだから、飛行機を降りたそのままの格好・そのままの装備で気ままに町に繰り出せた。服も含めて必要なものはタイで買えばいいし、荷物が多くなったら、トランクだって買えばいい。日本から持っていくより楽だし、値段も安い。
市内に出る。道々に売店がある。プラスチック製のピカチュウのおもちゃが目に入った。それは去年すでに買ったものだ。500mlのペットボトルほどの背の高さのプラスチックのピカチュウは頭のてっぺんだけが蓋をとったみたいに外れていて、いわば脳がむきだしになっている。
脳もプラスチック製だが、黄色じゃなくて透明のオーロラ色。背中にある電源をいれると音楽が鳴り、むきだしのデコボコした透明の脳が光りながら回る。去年、そのおもちゃに魅了され、しかしそこまで安くないし、どう考えても無駄遣いで、買うのをためらい、帰宿したけど未練が残り、翌日また店にいき、しかし迷ってやっぱり見送り、それでも忘れられなくて三日目に買ったら、初日よりもぐんと値段があがっていた。はじめ300バーツだったのを、450バーツとかで買った気がする。それと同じものが、去年の初日と同様の値段で売っていました。買わなかった。
道ではドラえもん柄のヘンテコ安トートバッグを購入、屋台でカオマンガイを食べていると18時になり、町のスピーカーから国家が流れはじめる。外にいる人全員が起立、直立し、全身で国家を聞く。夜の予定までしばらくぶらぶら。
電車で移動し、ニュアンス不明なキャッチコピー「SERIOUS SHOPPING」のノボリが張り出されたデパートで時間をつぶしたのち、ライブハウスにいく。ライブハウスといっても、日本のそれとは全然違う。タイには日本でいう「ライブハウス」の業態の店はほとんどない。
お店の軸は半野外の食事屋さんといえる。が、これも説明がむつかしい。レストランと呼べる雰囲気でもなければ飲み屋でもないし、フードコートや屋台でもない。若者でにぎわう開放的な、けど荒れすぎてもない、なんていうか、お祭りのときの食事をするスペースみたいな様子というか、価格帯が少し高めのハンバーガーショップみたいな雰囲気のお店で、この奥に、DIYなライブスペースが組まれている。
店のなかにはおおきな犬が二匹、うろうろしている。いたずらに背中を撫でてふれあう。ほかのお客に「どこからきたの」話しかけてもらうが、会話はまったく盛り上がらない。豚の角切り肉をカリカリに揚げ、なにか甘酸っぱいタレをかけて食べる「看板メニュー」が腹にたまる。
ライブはよかった。終わって、演奏エリアを出る。食事エリアはますます盛り上がっている。楽しい時間は夜更けまで続くだろう。まぶしく賑やかな店先を背に、ぼくはひとり車を呼ぶ。専用のアプリを使って、自分が今いる場所と、行きたい場所の住所を入力する。
たまたまその時に近くにいる、運転手としての登録をしている人が、自家用車で迎えにきてくれる。車内でやりとりしなくてもいいし、料金をぼられることもない。GrabTaxiというそのサービスを利用すると、いろんな人のいろんな車に乗れるのが楽しい。
やってきた黒い車の車内はきれいで、青いLEDライトで控えめに飾られている。助手席に乗りこみ、こんにちは(コップンクラップ)とありがとう(サワディカ・ディーマー)のやりとりだけで目的地に降りた。
リョウ(仮名)は中学一年生のときの同級生で、部活も別だし家も近くない。よくつるむ友人たちすら、そこまでかぶっていない。なのに、それからずっと、なんとなく仲良くしてくれ続けている。中学を卒業して、高校を出ても、一年に一回は顔をみる間柄で、むこうが京都に暮らしているときも、こちらが京都にいくときには遊びにいくし、反対に、あいつに東京の用があればついでに声をかけてもくれる。一度なんかリョウと、リョウの恋人の家に遊びに行ったこともある。そののち二人は結婚し、結婚式では友人代表のスピーチを任された。
「彼とは中学のころからの付き合いで、印象に残っている出来事も少なくありません。しかし少年同士の思い出には、いたずらが過ぎる部分があり、このような場でお聞かせするのには、ふさわしくない話ばかりです。彼のすてきなところはたくさんありますが、たとえば、リョウ、と呼びかけると、いつだって、「ハイ!」と、元気よく、返事をしてくれました。この「ハイ!」という返事があまりにも気持ちがいいので、しばしば、それを聞きたいがために、用もないのに名前を呼んだものでした。リョウくん、○○さん、結婚おめでとう。」
新郎の座席から半分立ち上がり、目を丸くして、「エッ、終わり!?」と彼が叫んでスピーチは終了した。緊張した。
中野の天ぷら屋で久しぶりに飲んだとき、僕ははじめてのバンコク旅行の土産話をした。リョウはリョウで、来年からのタイ駐在を報告してくれた。バンコクどんな感じだった? と前のめりに聞いてくる。「え、来年タイに住むの? それなら遊びにいっていい? おうち泊めてよ」厚かましくもお願いし、それで次の年に、彼の家をアテにして渡航したわけだ。
ライブハウスからGrab Taxiで、リョウに指定されたマンションまで移動する。マンション前でうろうろしていたら、守衛さんがいれてくれる。フロントでしばらく待ってたら、仕事帰りのリョウが姿を現す。疲れた顔をしている。
街中にドデンと建っている高層マンションで、中庭部分を挟んで二棟ある構造だが、玄関口は一方にしかない。1階はジム等、住人のための設備があり、中庭部分にはプールがある。
「このマンションのさ、入り口側とは反対側の路地にセブンイレブンがあるんだけど、先週、発砲事件があったばっかなんだよね」
「治安悪いの?」
「や、別に治安悪い地域とかじゃないし、そういう事件も珍しいんだけど、なんか、たまたま」
部屋はメゾネットタイプ、玄関のあるフロアにバスルームと寝室、階段を降りた階にリビングとキッチンがある。扉や廊下幅など、いちいち、ひとまわりおおきい。全体も広い。リビングにはおおきなソファがあるけれど、寝室のベッドはキングサイズなので、そこで一緒に寝る。どうしてタイにきたの? など聞いてくれるが、こちらの頭がへろへろでうまく返せない。せめて、おまえさんに会いに来たんだよ、みたいなこと言えばよかった。ん、それはそれで気持ち悪がられるかな。それまでタイにやってきた、ほかの共通の友人たちのことなどを聞きながらおやすみなさい。
現地に住んでいる友人の家に泊めてもらうのはうれしい。その友人のことも現地のことも、そうでなければ見られなかった角度から知ることができる。気候も植生も言語も文化も違うところで気心の知れた友人とテーブルをかこむのは、なんだか自分らがシドとナンシーになったような気持ち。よく行くという中華屋につれてってもらったり、近所のちょっとした軽食屋にいったり、あるいは、人が来たとき必ず連れて行くというタイスキの店にいったり、一緒にいろんなところにいった。ちなみに「タイスキ」はタイの言葉ではあるが「タイのスキヤキ」という意味の言葉で、しかし実際はシャブシャブである。鍋料理、なのかな。
こちらは観光旅行者で、むこうは駐在員である。平日日中は仕事をしている。だから、毎食一緒にいるわけではない。ぼくひとり、スーパーで買ってきたものをリョウの家でモソモソ食べるときもある。家から近い麺屋さんが気に入りでよくいった。ちょっと離れたところのお粥屋さんやレストランにもいった。はじめての海外旅行を粗食で貫いた後悔のため、それ以降の海外では食べたいものを食べられるだけ食べるのを信条にしている。道で売ってるたった100バーツで山盛りの生牡蠣なんかもずるずる吸う。
さて少年時代からの付き合いゆえのいたずら心のために、シドとナンシーの間に亀裂が走る日もあった。
帰宅したリョウがフツーにしてるから、しびれをきらして、こっちから「どう? なんか気づかない?」と促した。彼のいない間に、彼の家でドリアンを食べたのだ。リョウはそうと知ったら最後、ドリアンくささが気になって仕方なくなってくる。
「今日は一緒に寝てあげない!」
スネられて、その日ばかりは下の階のソファで一夜を過ごした。
彼はテレビゲームに興じ、僕はソファに寝そべって彼の背中をみる。その格好で、その頃はまだしばらく日本に残っていた彼のパートナーと3人で電話をする。また別の夜はタイマッサージの店で2人並んで施術を受ける。彼が仕事で忙しい夜は、ひとりでご飯を食べにいく。マンションの一階を、正面玄関めざして歩くと中庭のプールを横切った。動くものがある。見ると、白い小型犬がひとりきりで泳いでいる。ずいぶん楽しそうに遊んでいる。
それだけ立派なマンションには、使用人というか、掃除夫兼雑用係のような人がいて、ほかの住人がその人の語尾の「チャーン」の言い方をからかうのが、タイ北部の訛りをバカにしたものだと、逆に僕がリョウに伝える。これも勉強の成果か。
リョウの家に荷物をおいたまま、北部のチェンマイへ旅行をしにいった。そういや数ヶ月前から首が寝違えたようになっていて、そのままだった。悪くもなっていないが、よくなってなかった。で、チェンマイの悪路を自転車でガタガタ漕いでいたら、ある一瞬のタイミングで、急に左半身の手足が痺れはじめた。それは戻らない。半身がびりびり、びりびり、しゅわしゅわ、しゅわしゅわ、ヘンになる。恐慌状態におちいって、道端で体をぐねぐね動かして確かめるが、なにも改善されない。首をある角度で上にむけると、痺れが一層強くなることだけ判明した。そんななかスコールが降ってくる。神経のトラブルだろうか、脊髄になにかあるのだろうか。
おおごとである。ここで、死ぬのか? 大雨と恐怖で息が苦しくなり、しゃがみこんだら誰かが「大丈夫?」と声をかけてくれたが、自分でまだ把握しきれない症状を外国語で伝えられない。明らかにウソな「マイペンライ」を返す。「マイペンライ」が「大丈夫です」のニュアンスになるのかわからないけど。
その症状は実は、7年経ったいまも変わっていない。頸椎ヘルニアであるとは判明した。しかし可能な対処といえば、首を正面から切り開き、気管や食道、動脈静脈かきわけて背骨をいじくる大手術だという。しかもこの手術が成功するかにはかなり個人差があるうえ、副作用として声がでなくなる可能性が高い。とのことなので、なにも対処していない。
それはそうと、半身の痺れにおののきながら、こわごわ戻ってきたバンコクで、おおきな駅の駅前ビルの、構えの立派な美容院に飛び入りで入って髪を切った。「タイでいま流行っている、いちばんイケてる髪型にしてくれ」Google翻訳に頼ってそう注文する。
椅子に座らされる。背もたれが倒れていき、後頭部が洗面台についたあたりで、さらに首をぐっとうしろにのけぞらさせられ、痺れががっと強くなる。やめて!しんじゃう。立地も店構えもそれなりなのに、洗面台におちるシャワーの水はきんきんに冷たい。散髪が終わり、美容師は背後から、僕の左右の肩を左右の手のひらでぐっと包み、腰を曲げる。鏡越しに目をまっすぐ見つめてくる。そして得意げに「メイド・イン・タイランド・フロム・ジャパーン」と宣言した。「ジャパーン」は、郷ひろみと同じ言い方。
それから私は、旅先で髪を切ることを楽しむ人間になったのでした。来週はイタリアの話をします。ローマで髪を切った話です。
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