おぼれる犬 <旅行記シリーズ>
4月18日、肌寒い、霧の朝。光はあるが、太陽の姿はみえない。山に囲まれている。靄越しでもまぶしい緑色。スイスの首都ベルンにいた。ぐっすり眠って迎えた朝だった。
前日までいたジュネーヴもすり鉢状の地形で、その底は水辺だった。湖と、湖にそそぐ川があった。ベルンも、アーレ川を町の底に持っており、そしてこの水辺にむかう傾斜に中世のままの建築物が立ち並んでいる。旧市街全体が中世のままで、まるごと世界遺産に指定されている。近現代以降の開発は旧市街の外側で行われており、鉄道路線の敷設や駅舎の建築もそのひとつだから駅前の景色は現代の都会で、ビルも立ち並んでいる。しかし少し歩いて旧市街エリアに立ち入ると、いきなり様変わりする。テーマパークに入場するような変わりようである。町を一望できる場所があって、最後の日、ベンチに座って眺めていたら涙がでてきた。景色が美しいから感動したんだ、と、そのときは思ったし、いまもそう思っているけれど、日記を読み返すと、ひどく疲れているので、かなり感じやすいモードだったという背景もあるようだ。まあ、美しいことに変わりはない。
涼しくて湿気があって、靄があって、そんな高地のすがすがしさを浴びながら見下ろす、統一感ある古い町並みのむこうに、鮮やかな山並みが果てなく続いている。
ただし傾斜はものすごい。景観を楽しみながらの散歩はむつかしい。足腰が弱っている人なんかだと、ちょっとの外出もたいへんな苦労になるはずだ。車が締め出されているわけではないが、中世に建てられた住宅には駐車場がない。町のなかにエレベーターがある。ゴンドラリフト、という。斜めに進むエレベーターで、ロープウェイの見た目を想像するとわかりやすいかもしれない。
どこからきたの? 道でおばあちゃんが話しかけてくれた。宿泊予約をとったユースホステルに向かっている道中のことだった。わたしも昔、一度日本にいったことがあるのよ。SHIZUOKAでFUJI MOUNTAINをみた。気さくなおばあちゃんがうれしくて、人心地がつく。道案内もしてもらった。この先をこう行けばいいよ。楽しんでね。
ホステルはアーレ川のすぐそばにあった。目の前の穏やかな芝の岸辺をながめる、天井の高い食堂の巨大なガラス窓には、視界を遮る要素がなにもない。床も壁も天井も白いホステルの空間は美術館にも似ている。ホステルの受付で公共交通乗り放題チケットをもらったが、このチケットの裏面はカジノのサービス券になっていた。トラム(路面バス)に乗って旧市街を出て、もっと騒がしい場所にいくとカジノがあるらしい。
ベルンについたのは午前中のこと。雨が降っていた。ひとまず駅に荷物を預け、町を歩きまわった。ローデンバックの「死都ブリュージュ」よろしく、なんだかロマン主義的な調子を引き立たせる天候である。
石敷きの橋を渡るとくさい。向こう岸の川辺に熊がいるのだ。ベルンは熊の町、熊さんがキャラクターになっていて、橋のたもとに本物のヒグマが何頭も飼育されている。雨のそぼ降る霧深いスイスの水辺で、強靭な柵に閉じ込められた何頭もの不機嫌なヒグマが、獣臭いにおいをたてている。
熊を背に坂をのぼって濡れたバラ園をひとめぐり、Uターンするかたちで旧市街の通りへ戻る。アインシュタインの家の前に石の看板がある。濡れた石畳と心地よいノイズ音には慰謝の響きがある。趣きのある街並みはたいへん素晴らしいが、ベルンを去るとき、車窓から、落書きだらけの下品な空き地が覗いたのもおもしろかった。スプレーでめちゃくちゃにされたコンクリ壁の空き地には、まだらにチョコレート色に染まったドラム缶が無節操に突っ立ったり転がったりしていて、モグラ塚大の黒や灰色のごみ小山、すりきれた布が干されたまま忘れ去られていた。
航空会社のマイルが相当溜まっているけれど有効期限が近いし行くアテもないんで、よかったらお前、ひとり遊学しにいったらどうだ。美術を学んでいる身なんだし。その誘いがものすごく幸運な、貴重な機会であることは頭じゃ重々わかっていたけど乗り気じゃなかった。だって心の準備がない。海外に行きたいと思ったことも考えたこともない。その発想がよぎったことがなかった。唐突にこんな提案が突きつけられても、贅沢だけれど喜べない。困惑してしまう。嫌ですらある。まったく知らない、言葉の通じない場所にひとりで行ってくるだなんてシンプルにおっかない。ヨーロッパ各地でのテロも増加している時期だった(ミシェル・ウエルベックの「服従」が出版されて半年ほどの時期だった)。パリに一週間、スイスに一週間の旅行計画を、こわごわ自分でたて、自分でたてておいておびえていた。
問題はまず、入国である。犯罪都市パリに到着し、入国ロビーを抜ければ、そこにはスリやひったくり、詐欺師や暴漢であふれている。いろいろな映画で見てきたから知ってるんだ、地下には悪霊がいるし、地上にはゾンビが、さらに上にはスペース・ヴァンパイアがいる。見た目からして明らかに弱い頼りない私がひとり、きょろきょろ登場したら、たちまち身ぐるみはがされて、手で腹を裂かれ、内臓を食われる。入国のタイミングで、すでに防備を完璧にしていなければならない。ということは、出国時点で態勢を整えていなきゃ間に合わない。
冗談めかして書いてはいるが、当時の心境はしかし実際このとおりで、余裕なんてまったくなかった。家を出る準備は徹底的、パスポートやクレジットカードのコピー、現金を体中に分散させた。靴の中、二重ポケットのなか、小さなポーチにいれてズボンとパンツのあいだに隠し、あるいは首からぶらさげて、シャツの下にひそませる。財布はじめポーチや荷物はチェーンで互いに連結させ、あるいはズボンのベルト穴と繋ぎ、リュックについてる使用頻度の低いチャックは結束バンドで固定、使用頻度の高いチャックにはワイヤー錠をかける。まだ暗い朝、このような仕掛けを全身に施して、その時点で大汗をかいている。目の下にクマをうかべ、最寄り駅の路線の始発よりはやい時間に家を出て、一時間ほどかけてJR駅まで歩き、二駅先で降り、空港行のシャトルバスに乗る。バス車内でもイライラ発汗するばかり、深呼吸に余念がない。空港に辿りつき、巨大な空間におじけづく。保安検査場で金属探知機が鳴りまくり、体じゅうに仕込んだ犯罪対策をすべて取り除かなければならない羽目になる。一度ですべてを取り外せない。外しては探知機を鳴らし、外しては探知機を鳴らし、何度も繰り返し、ついにすべて取り外した最悪の丸裸状態で飛行機に搭乗した。機内サービスで酒を飲み、酔いと、あとオールナイトニッポンの録音のなかに逃げ込んで恐怖感をやり過ごす。もう戻れない。飛行機に乗ったからにはもう戻れない。途中下車できない。飛行機は海を渡る。ロシア上空を西へ西へ渡っていく。
そういう旅だったから、事前の情報収取も、観光スポットやグルメスポット、お土産情報やなんやら、犯罪被害を考慮しないアホがよだれ流して飛びつく浮かれ情報は無視、ひたすら詐欺の手口、スリの手口、トラブル発生時の段取りの確認、差別について、害虫について、衛生環境、テロ情報、治安情報のサーチに終始し、ヨーロッパ旅行経験者と会えば直接そういった種類の話のみを聴取した。
多かったのは差別の話で、パリの地下鉄で偶然出くわした乗客が、こちらに気づいたとたん、両手の人差し指を伸ばし、自らの目じりに押し付け、やや上方向に斜めに引き延ばし、アジア人の細目を表現するアレを見せつけてきたとか、そういった類の体験談だった。たとえばなにも知らずにそれをやられたらショックだろうが、けれど体験談を聞き、そういったことがあり得ると知ったうえでされたら、ショックは少しはやわらぐはずだった。
ところが、パリの地下鉄に、乗っても乗ってもそれをされない。されるもんだ、と思っていたのにされないから、だんだん欲しくなってくる。物足りない気がしてくる。されるんじゃないのかよ、こいよ、くれよ、してくれよ。
その体験はできずじまいでフランスを去った。スイスへ渡り、ジュネーブを経てやってきたベルンの美術館を観終わって、建物を出ると、すぐそこに児童たちの一団がいた。学校行事でつれてこられた御一行様だろう。見慣れない人種の子供の年齢なんて見た目でわからないけれど、騒がしさを思えばそれなりに年少だ。私は一人、帰りのバスにむかって歩く。先生たちに集められ、並べられ、数えられている彼らの前を通り過ぎるとき、ひとりの黒人の女の子がこちらをみて、両手の人差し指で右目左目の目尻をおさえてななめ上に引き延ばした。先生に見咎められるその子をよそに、立ち止まらずに歩いて抜けた。
意外だった。されるなら、悪意むきだしの白人青年男性にされると思っていた。差別的な態度をとる人間として自然にイメージしていた属性は、「白人」の「男」の「大人」だった。白人の青年男性は加害的でいじわるで、黒人の女児は弱くて根性がないと、まさか自分がそのように感じているということか? 窓際の席に腰を落ち着け、バスの出発を待っていると、数えられ終えた子供たちがやってきた。先生に率いられ、窓のすぐ外を行進していく。バスを追い越していく行列の最後尾を、さきほどの女の子が先生に強く叱られながら、大泣きしながらついていく。
美術館はベルン近郊出身の画家、パウル・クレーの名が冠された「パウル・クレー美術館」で、40年ほどの作家生活のなかで9000点にも及ぶ作品を遺した彼の作品をおおいに紹介している美術館でもあるのだけれど、クレーだけを顕彰した美術館なのではなく、いわゆる美術館と同じく、おおきな企画展も行われており、これは中国の現代美術作家たちをまとめて紹介する、その名も「Chinese Whisper」と題された展覧会だった。
数日前、パリのポンピドゥー・センターで、パウル・クレーの回顧展をみたばかりだったし、数日後にはチューリッヒの現代美術館で、アジアの現代アートシーンを紹介する展覧会に出くわしたように思う。「思う」というのは、これは日記が残っていないためで、ベルン以降、日記をつけなくなっていた。たんに書くエネルギーが残っていないのか、もしくは、書きたいことが多すぎて、エネルギーがショートしたのか。
ベルンに来る前の滞在地、ジュネーヴで泊まらせてもらった日本人の友人は「ぜ」「だぜ」がよく語尾にくるのだけれど、明らかにその影響で、ベルンでの日記はかなり多くの文章が「ぜ」で終わる。「にぎやかすぎるぜ」「比較的楽しく過ごせたぜ」「帰りたいぜ」「わからんぜ」「人を食べる夢をみたぜ」
ヒグマを眺め、駅に戻って荷物を出して、おばあちゃんに案内をもらってホステルに到着し、顔を洗ったバスルームにいたイタリア人によるギリシャ人の悪口(グリークスをヘイトしている、グリークスはナンセンスでフールだ、パーである。聞き取れた単語は少ないが、わざわざ英語で言ってくれたから、どうしても伝えたかったんだろう)を受け流し、それから再度町に出て、ミニスーパーで食料を買った。見知らぬ、言葉の通じない土地で人とやりとりをするのがこわいから、セルフレジが大好きになった。この旅の二週間のほとんどの食事を、ミニスーパーのセルフレジで購入した、パンにハムとチーズを挟んだだけのサンドイッチでやり過ごしていた。
起きると4月18日になっている。二段ベッドの上で目を覚ます。肌寒い。窓からの光で、天井が青く染まってる。外にはおおきな川が流れている。川、森、中世の町並み、清冽な朝靄と光。
美しい景観を楽しみ尽くすために、静かな朝に外に出た。穏やかに輝く水面を、しなやかでたくましい芝が取り囲んで祝福している。聞こえるのは水の音と鳥の声、ほかにあるなら、霧の音だろうか。霧が鳴るなら鳴る音だ。うれしく歩くと橋に出た。向こう岸のほうが標高が高く、かつ草木も多い。木々に囲まれた濡れた道に、かどのないエネルギッシュな臭気がたちのぼる。山あいの水辺だから、空気はあくまでひんやり冷たく、乾いてもいないし蒸してもいない。川のそばにおおきなグラウンドがいくつか見下ろせる。日の光は草木に遮られるために、じゃれつくように見え隠れする。幹線道路があらわれた。幅の広いアスファルト舗装の橋が川をまたいでいるが、ここを渡るとホステルにすぐ帰りついてしまう。だからふもとで折り返し、より川に近い道を選んで散歩を続ける。きらきらの道を歩いて、ごくまれにすれ違うジョガーや自転車乗りと、目でにこやかに会釈を交わす。もときた橋をまた渡り、川辺の原っぱをのんびり進んで、なんてきれいな場所なんだろうと心の底から安心していると、言葉にならない叫びが小さく聞こえた。音のしたほうに目をやる。むこうで川を見下ろし慌てているのは杖をついたずんぐりむっくりしたおじいさんで、心配になって足をはやめるも、近寄るあいだに、なんとおじいさんは自ら川に飛び込んだ。水しぶきがあがり、おじいさんの悲鳴もあがる。現場に辿りついたころ、全身ぐしょ濡れのおじいさんが川から這い上がってきた。片腕に、やはりぐっしょり濡れ、モップみたいになっている小型犬が抱かれている。散歩中に足を滑らせたかなにかで川に落ちた犬を、おじいさんが救出したのだ。救出自体が終わった以上、もはやどうすることもできないから、自分自身への言い訳のために「Are you OK?」とだけおそるおそる口にするが、犬もおじいさんもぶるぶる震えているばかりである。標高の高い、山あいの町の早朝の川があたたかくないのは、触れなくてもじゅうぶんわかる。おじいさんはそれでも「いいから、大丈夫だから」というそぶりをみせ、「OK,OK」とかろうじて繰り返したが、ぼくの問いかけへの応答なのか、犬への言葉なのか、おじいさん自身への言葉なのかはわからなかった。