大乗起信論①
しばらくインド密教を見てきました。即身成仏の思想や修行の実践方法など、大乗仏教と異なる点も多く見られますが、哲学的な理論についてはほぼ同じ、即ち、大乗仏教が「空」と消極的に表現した真理を密教は「法身大日如来」と積極的に表現しているだけの違いのように思われます。
さて、今回からまた大乗仏教の思想へ移ります。おさらいになりますが、中期大乗仏教に含まれる唯識思想と如来蔵思想は、どちらも初期大乗仏教の経典である「華厳経」の三界一心(三界唯心)作の思想の展開であると考えられています。心を真如とするのが如来蔵思想で、心を阿頼耶識とするのが唯識思想であるというのが大雑把な説明でした。
初期の唯識派の論書、即ち弥勒(マイトレーヤ)の名で伝えられている論書には真如・法界が虚空のようにあらゆるところに遍満していることが強調されており、阿頼耶識という輪廻的存在の根拠が無であることを覚れば、法界に融け込んで真如そのものとなること、その人の仏性が開顕して人間としての制約を離れた無限の活動に従事するようになることが説かれています。マイトレーヤの唯識論は「無形象唯識論」と呼ばれ、彼の唯識論は空の思想を受け継ぎ、如来蔵思想とも繋がりをもっています。
如来蔵経典の系統図は次のようになると言われています。
『大乗起信論』はサンスクリット原典が見つかっていない経典の一つであり、漢訳のみが中国で見つかっているようです。如来蔵思想と唯識思想をまとめた箇所もあり、中国仏教の、特に華厳宗の性起説に大きな影響を与えていますので、少し中身に触れていきたいと思います。
マイトレーヤの無形象唯識論を思い出して頂けると、すんなり理解できます。心真如相とは自性清浄心(恒常不変)なる阿頼耶識の深層=如来蔵です。もう一方、心生滅因縁相は生起・消滅を繰り返す無常なる阿頼耶識の表層(種子の運び屋)を示します。
第一の部門が如来蔵思想で、第二の部門が唯識思想です。この両者は阿頼耶識を深層から表層へ見ていくか、表層から深層へ見ていくかの違いと考えられます。しかし、注意しなければならないのが、第二の部門である唯識思想は「無形象唯識論」である点です。「有形象唯識論」では清く輝く阿頼耶識の深層部(光り輝く心=自性清浄心=如来蔵)のようなものを認めないので、覚りを得ても法界に融け込んで込まず、真如そのものとはなりません。