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【大乗仏教】中観派 十二縁起の拡大解釈

以下の前回の記事の続きになりますが、龍樹は十二縁起の無明と行についても相互依存関係を説いています。

『空七十論』より
龍樹:
「苦の結果を伴う縁起の十二支は生起したものではなく、一刹那においても認められないし、多刹那においても認められない。無常は常でなく、無我は我ではなく、不浄は浄ではなく、苦は楽ではない。従って倒錯はない。それ(倒錯)がなければ、四つの倒錯から生起する無明もない。無明がなければ、行は生じないし、その他のもの(識~老死)も同じく生じない。無明は行がなければ生じないし、無明がなければ行は生じないのであるから、この両者は相互に原因となるという理由からしても実体として成立していない。自らが実体として成立していないならば、どうして他のものを生起せしめようか。かくて、他者が成立しない条件は他のものを生起せしめるものではない。父は子でなく、子は父ではない。この両者は相互に存在しないのでもなく、またこの両者が同時にあるのでもないように、縁起の十二支もそれと同じである。」

釈尊の十二縁起における無明と行の関係
①無明が有るから、行が有る。
②無明が無ければ、行が無い。
③無明が生ずることにより、行が生じる。
④無明が滅することにより、行が滅する。

釈尊の十二縁起における無明と行の関係は、無明から行への一方的な関係のみを指しており、時間的な生起関係です。すなわち、無明が時間的に先で、行が時間的に後になります。原始仏教の記事で述べましたが、筆者は無明も行も「輪廻の主体」に結合したものと考えており、潜在煩悩である無明が過去世の業(カルマ)=罪障・功徳や残存印象である行に働きかけて活動させる過程を①と解釈しています。

しかし、このように時間の前後を含むため、論理学とは相容れないものである釈尊の「十二縁起における無明と行の関係」について、龍樹は①の対偶を取り、次のように置き換えています。

龍樹の置き換え
①行が無ければ、無明は無い。
②無明が無ければ、行は無い。

つまり、無明と行の双方向的な関係、相互依存的な関係となります。十二縁起内における無明と行の関係に限定しなければ、無明と行の間に相互依存関係は存在するため、間違いではありません(十二縁起内に限定しなければ、識と名色にも相互依存関係が成り立つと釈尊は説いています)。しかし、釈尊が十二縁起として説いてある無明と行の関係には時間的前後があるため、単純に置き換えると間違いとなります。

龍樹もこれが分からなかったのではなく、彼は無明も行も本体ではないことを強調しているのです。「結果がなければ原因もないのであって、結果が原因に依存しているだけでなく、原因も結果に依存している」ということですね。