龍樹(ナーガルジュナ)の代表的な著書と言えば、『中論』だと思います。下記が『中論』の始まりの文章になりますが、このように龍樹と中観派は自派の定説を持たず、言葉・思惟の形而上学へ執着する他学派への批判が主になります。
故に、中観派の主張の中で積極的な部分を見つけるのが難しいのですが、「相依性縁起」というものは比較的有名だと思います。そこで、今回はその相依性縁起の一つとして「原因と結果」の相依性を見ていきたいと思います。ここから、龍樹が現象の世界をどのように捉えているのか、本体(自性)の定義を具体的にどのように考えているのかが見えてくると思います。
ここで龍樹は「原因と結果」を経験的な立場、すなわち現象の世界目線で考えているでのはなく、本体の世界目線で考えています。「原因と結果」のそれぞれを本体と仮定すると、原因と結果との関係は同一であるか、別異であるかという二つの選言肢しかありえないことになります。龍樹の本体の定義において、本体がある部分的には同一でもあり、他の部分的には別異でもあるというような合成体であることはできません。
龍樹は原因と結果のいずれも、それは本体として空なるものであると説きます。もし、それが本体であるならば、原因としても、結果としても成り立たず、因果関係も成立しないとします。同一性と別異性のディレンマはおそらく龍樹の論理の最も基本的なものであり、因果関係に限らず、原理的にはあらゆる主題に適用されています。
○結果に依存して原因はある?
結果は原因に依存してあるということは、一般的な常識として理解できますが、龍樹は同時に原因は結果に依存してあるともします。因果関係と論理的な理由付けを混同していますが、本体の目線から現象世界を観察するとそうなるということでしょう。原因の枠の中に結果の枠がある(原因の全てが結果を生じない)ため、結果があるから原因があるが成り立ちます。
三時にわたって「原因」は認ないとは、まず、原因が結果よりも先に固定しているならば、(それは)何ものの原因であるかということです。次に、結果より後に固定するのであれば、既に結果として成与してしまっているものに対していかなる原因が必要かとなります。原因と結果が同時に固定するならば、同時に生じる原因と結果との両者はどちらがどちらの原因であり、どちらがどちらの結果であるのかと龍樹は主張します。