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【大乗仏教】中観派 原因と結果

龍樹(ナーガルジュナ)の代表的な著書と言えば、『中論』だと思います。下記が『中論』の始まりの文章になりますが、このように龍樹と中観派は自派の定説を持たず、言葉・思惟の形而上学へ執着する他学派への批判が主になります。

○縁起の八不 (不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)
縁起とは、滅することなく、生ずることなく、断絶することなく、常住することなく、一義ではなく、多義ではなく、来ることなく、去ることなく、安らかに戯論を寂滅させる。このような縁起を説いた正覚者、説法中の最も優れた人、その人(仏陀=釈尊)に私は敬意を捧げる。

故に、中観派の主張の中で積極的な部分を見つけるのが難しいのですが、「相依性縁起」というものは比較的有名だと思います。そこで、今回はその相依性縁起の一つとして「原因と結果」の相依性を見ていきたいと思います。ここから、龍樹が現象の世界をどのように捉えているのか、本体(自性)の定義を具体的にどのように考えているのかが見えてくると思います。

龍樹:
「ものは如何なるものでも、どこにあっても、決して自身から、他のものから、自他の二つから、また原因なくして生じたものではない。」

龍樹:
「原因と結果とが同一であることは決してありえない。また、原因と結果とが別異であることも決してありえない。原因と結果とが同一である時には、生ぜしめるものと生ぜしめられるものとが同じになってしまうであろう。けれど、原因と結果が別異であるならば、原因は原因でないものと同じになろう。それ自体として実在するものである結果を、原因はどうして生ぜしめるのであろうか。それ自体として実在しないものである結果を原因はどうして生ぜしめるのであろうか。また、結果を生じないものが原因であるということはありえない。そうして原因であることが成立しないならば、何ものにとって結果が起こるのであろうか。」

ここで龍樹は「原因と結果」を経験的な立場、すなわち現象の世界目線で考えているでのはなく、本体の世界目線で考えています。「原因と結果」のそれぞれを本体と仮定すると、原因と結果との関係は同一であるか、別異であるかという二つの選言肢しかありえないことになります。龍樹の本体の定義において、本体がある部分的には同一でもあり、他の部分的には別異でもあるというような合成体であることはできません。

龍樹は原因と結果のいずれも、それは本体として空なるものであると説きます。もし、それが本体であるならば、原因としても、結果としても成り立たず、因果関係も成立しないとします。同一性と別異性のディレンマはおそらく龍樹の論理の最も基本的なものであり、因果関係に限らず、原理的にはあらゆる主題に適用されています。

○結果に依存して原因はある?
結果は原因に依存してあるということは、一般的な常識として理解できますが、龍樹は同時に原因は結果に依存してあるともします。因果関係と論理的な理由付けを混同していますが、本体の目線から現象世界を観察するとそうなるということでしょう。原因の枠の中に結果の枠がある(原因の全てが結果を生じない)ため、結果があるから原因があるが成り立ちます。

『空七十論』より
龍樹:
「(存在が)存続する、生起する、消滅する、存在する(有)、存在しない(無)、劣っている、同等である、優れている(等という)ことを釈尊(仏陀)は世間の常識(言説)として説かれるのであるが、真実として(説かれているの)ではない。自我はない、無我はない、自我かつ無我もない。だから名称は何もない。名称で表される事物(法・ダルマ)は全て涅槃と同じく実体(自性)が空であるから。あらゆるものの実体は、原因(因)であれ、条件(縁)であれ、(原因と条件との)集合であれ、いずれのものであれ、どこにも存在しないからである。有は現に有るのであるから原因から生起することはない。無は現に無いのであるから生起することはない。有かつ無は性質が相違するから生起することはない。生起することがないから、存続することも消滅することもない。既に生起したものが生起を受けることはない。未だ生起していないものも生起を受けることはない。生起する時も生起を受けることはない。なぜなら、既に生起したものと、未だ生起していないものを離れては生起する時はないのであるから。原因が認められないことからしても、生起は存在しないのである。なぜか。結果があるなら、結果をもつ原因がある。それ(結果)がないなら、原因でないものと同じになる。(結果が)あるのでもなく、ないのでもないなら矛盾する。(先・後・同時の)三時のいずれの場合にも(原因は)認められない。「一」がなければ「多」はなく、また「多」がなければ「一」はない。従って存在は依存関係によって生じているのであって、個体としての存在(自相)のないものである。」

三時にわたって「原因」は認ないとは、まず、原因が結果よりも先に固定しているならば、(それは)何ものの原因であるかということです。次に、結果より後に固定するのであれば、既に結果として成与してしまっているものに対していかなる原因が必要かとなります。原因と結果が同時に固定するならば、同時に生じる原因と結果との両者はどちらがどちらの原因であり、どちらがどちらの結果であるのかと龍樹は主張します。