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【大乗仏教】空の思想 智慧波羅蜜/随喜と廻向

今回は「智慧の完成」、すなわち智慧波羅蜜(智慧波羅蜜多)について、引き続き「八千頌般若経」で内容を見ていきます。智慧波羅蜜は別名、般若波羅蜜です。「般若(はんにゃ)」とは智慧を意味するパーリ語(巴語)のパンニャーの音写です。

○六波羅蜜(六種のパーラミター)
菩薩の修行項目である{布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧波羅蜜}を六波羅蜜または六波羅蜜多といいます。第六番目の智慧波羅蜜はは「智慧の完成」と言われ、この「智慧の完成」が先だってこそ、他の五支は完成となることから、「智慧の完成」は大地、他の五支は種、五支の完成は花に例えられます。

原始仏教の八正道は道徳的な自己訓練による心身の清明化を経て、瞑想の完成に至る修行を表しており、八正道の各項を貫くものは沈着・冷静・中庸の精神でした。つまり、極端な苦行と逸楽の二辺を避けて中道を守ることが八正道の根本精神です。

一方、大乗菩薩の六波羅蜜{施与の完成、道徳の完成、忍耐の完成、努力の完成、瞑想の完成、智慧の完成}は中庸の精神とは裏腹なものとなり、虫一匹を救うために自分の命をも捧げるという極端な自己犠牲と、道のためならいかなる難行をも厭わない不撓不屈の精進をその精神としています。道徳というものはただの世間的な意味での善人であることや瞑想の準備として心を落ち着けるために道徳的な生活をするということではなく、世間的には不徳であることですら、それが利他行の道に適うなら恐れずに行うことをも含みます(善・悪、自・他といった固有の本体はないため)。

○廻向(えこう)
智慧波羅蜜は、自業自得の法則を覆した「廻向」の思想と大きく関係してきます。

八千頌般若経より
釈尊:
「アーナンダよ、お前はどう思うか。多くの幸福の原因となる行為(善根・功徳)を、全知者性の方へ振り向けるという仕方で発展させる。その智慧は不思議ではないか。…その智慧によって全知者性の方へ振り向けられた多くの幸福の原因となる行為が完成という名前を得るにいたるのである。それであるから、アーナンダよ、多くの幸福の原因となる行為が全知者性の方へ振り向けられるということによって智慧の完成は他の五つの完成に先立つものである。」

多くの幸福の原因(善根・功徳)となる行為とは{布施(慈善)、持戒(道徳)、忍辱、精進、瞑想}を指します。善因(功徳)が楽果(未来の幸福・快楽)を、悪因(罪障)が苦果(未来の不幸・不快)をもたらすという思想は仏教だけでなく、古代インドの哲学界に共通の原理でした。ただし、功徳自体が衆生(有情)を輪廻の世界から解放させることはありません。輪廻から解脱するためには倫理を超えた智慧が必要となります。すなわち、善行の功徳だけでは無明に対抗することはできないのです。

しかし、『八千頌般若経』は廻向の思想によってこれらを結び付けました。本来、施与(布施)や道徳(持戒)等の善根(功徳)=「幸福の原因」となる行為は単にその行為者の未来において幸福・快楽をもたらすだけです。しかし、智慧の完成(智慧波羅蜜)は善根(功徳)を無上にして完全な覚り=全知者性に至るための原因に転換させ、振り向けることができるとします。このように方向転換して発展させることが廻向と言われます。

このように、善根(功徳)を覚りの原因に転換させるということは、「空」の思想によって成り立つものです。全てのものに固有の自性・本体がなく、「空」という共通の本体から成るものであれば、善根(功徳)にも全知者性(完全な覚り)に至る原因にも全て「空」というものの本性(法性)があるため、可能ということです。

○随喜と廻向
仏教には「随喜(ずいき)」というものがあります。随喜とは他者の善行を見て心から喜ぶことです。他者の善行の功徳は当然、その行為者である他者の功徳となりますが、他者の善行に随喜する(共に喜ぶ)ことは自らの功徳となるのです。
「八千頌般若経」では、菩薩大士の修行として、以下のような随喜と廻向が説かれています。

三世の諸仏、あらゆる世界に住まう様々な衆生が過去に植えた善根・現在植える善根・未来に植えるであろう善根、その一切の諸善根を余すところなく、完全に心の中で一団にまとめ、集め、量り、秀でた随喜の心をもって随喜する。優れた、尊く、高く、最良の、際立った、最上の、無上の、勝るものなく、比類なく、至高なる随喜の心をもって随喜する。このように随喜して、「それが無上にして完全なさとりをもたらすものとなれかし。」と念じつつ、「随喜を伴った善行徳目を無上にして完全なさとり(法界・全知者性)に廻向します。」という言葉を発し、廻向する。

自身の随喜で得た功徳を、智慧波羅蜜によって、自身の完全な覚り(全知者性)のために廻向(振り向ける)ということです。

スブーティ:
「マイトレーヤよ、菩薩がある一瞬の心によって善根に随喜した後に、その同じ心がその随喜を伴った善根を廻向するというならば、その心は廻向する時には既に消え、滅し、過ぎ去り、変わってしまっている。だから、それによって無上にして完全な覚りに廻向するというその心は何なのか。あるいは、随喜の心を伴った善行徳目を無上にして完全な覚りに廻向する別の心があるとするならば、その別の心とは何なのか。あるいは、二つの心が同時に存在することがないのに、一つの心によって他の心を廻向することが、どうしてできようか。更に、その心の本性は無形であって廻向されることはできないでしょう。」
マイトレーヤ(弥勒菩薩):
「聖者スブーティよ、もし菩薩大士がある心によって、それを廻向する時、その心を心で意識しないならば、その菩薩大士は随喜を伴った善行徳目を正しく無上にして完全な覚りに廻向したことになるのです。これがその心であるというように、その心を考えないならば、かくてその菩薩大士には誤った意識、誤った心、誤った見解がないのです。けれども、彼がある心によってそれを廻向する時、その心を考え、これこそがその心だと心で意識するならば、その菩薩大士には誤った意識、誤った心、誤った見解があるわけです。また、菩薩大士が、彼が廻向する対象である心、その心を次のように考え、次のように注意するとしましょう。即ち、『自分が注意したその心は、既に消えたのだ。消えたのだ。』というように考え、『滅したのだ、過ぎ去ったのだ、変わってしまったのだ。』というように考える。また、『消滅してしまったものを廻向することはできない。自分がそれによって随喜を伴った善行徳目を廻向するその心にも、そういう既に消滅してしまっているという"ものの本性(法性)"があるのだ。それによって、廻向が行われるそれらの善行徳目の諸事物にも、その同じ"ものの本性"がある。それに向かって廻向が行われるそれら無上にして完全な覚り等のものにも、その同じ"ものの本性"がある。』と。もし、菩薩大士がこのような仕方で廻向するならば、彼は正しく廻向するのであって、誤った仕方で廻向するのではない。菩薩大士はかくの如く廻向しなければならないのです。」

難しい対話ですが、要は「過去に随喜した心」「善行徳目(功徳)」「廻向する心」「完全な覚り」のいずれにも共通の本体=空=ものの本性があるため、自身の随喜で得た功徳を、智慧波羅蜜によって、自身の完全な覚り(全知者性)のために廻向(振り向ける)ということができるということです。

菩薩乗によって修行する人が、もし過去・未来・現在の諸事実を把握せず、考えず、認識せず、思い量らず、想像せず、見ず、認めないで、しかもこれらの事物を次のように考察するとしよう。「全てのものは思惟の所産であり、生じたものでもなく、滅するものでもない。去ることもなく、来ることもない。ここに如何なるものも生起したこともなく、如何なるものも生起するであろうこともなく、生起することもない。また、如何なるものも消滅したこともなく、如何なるものも消滅するであろうこともなく、消滅することもない。」と。このように、それらのものを考察して、それらの事物のものの本性に従って、ありのままに随喜する。随喜して、ありのままに無上にして完全な覚りに廻向するならば、こういう理由で菩薩大士に秀でた随喜があることになる。

菩薩大士の秀でた随喜として、上記のように説かれます。また、随喜と廻向について、次のようにも説かれます。

智慧の完成と巧みな手だてに守られた菩薩大士があって、過去・未来・現在の諸仏世尊の多くの道徳・精神集中・智慧・解脱・解脱の明知による直観、更にかの独覚達の多くの道徳・精神集中・智慧・解脱・解脱の明知による直観、またかの声聞達の多くの道徳・精神集中・智慧・解脱・解脱の明知による直観、および全ての有情の過去・未来・現在の善根、それら全てを心の中で一団にまとめ、集め、量り、完全にし、余すところなく、秀でた随喜の心をもって随喜し、優れた、尊く、高く、最良の、際立った、最上の、無上の、勝るものなく、上々の、比類なく、至高なる、類なく、不可思議な随喜の心をもって随喜する。随喜した上で、随喜を伴った善行徳目を無上にして完全な覚りに廻向する。~

「また、スブーティよ、菩薩乗によって修行する人が、もし過去・未来・現在の全ての仏陀世尊の{施与・道徳・忍耐・努力・瞑想・智慧}を随喜しようと思うならば、次のように随喜しなければならない。『解脱が煩悩の障害と知的な障害を離れ、不生の様相のものであるように、{施与・道徳・忍耐・努力・瞑想・智慧}もそうである。解脱のように、{解脱の明知による直観・随喜・廻向}もそうである。解脱のように、諸仏世尊も独覚者達もそうである。解脱のように、諸仏の、完全な涅槃に入った声聞達もそうである。解脱のように{かの未来のまだ生起していないもの・かの今現に生じているもの・過去の諸仏世尊とその声聞達・未来の諸仏世尊とその声聞達・今、無量無数の世界の中にとどまり、耐え、住んでおられる現在の諸仏世尊とその声聞達・過去、未来、現在の諸仏世尊}もそうである。このように束縛されておらず、解放されておらず、固着していない全ての事物の"ものの本性"、それを私は無上の随喜をもって随喜しよう。随喜した上で、随喜を伴った善行徳目を無上にして完全な覚りに、"ものの本性"の不変、不滅に従って廻向しないという仕方で私は廻向します。」と。スブーティよ、これ程に菩薩大士の随喜は秀でているのである。

○深般若波羅蜜多(深智慧波羅蜜多)?
少し脱線になりますが、菩薩には次の段階が考えられます。
1)「空」を覚っていないレベル(~菩薩)
2)「空」を覚ったレベル=善巧方便と智慧波羅蜜の獲得(菩薩大士)
3)「空」と一体化した最高境地=涅槃(如来・仏陀)

大乗菩薩=菩薩大士というのは上記の2)~3)の間の修行者ということになると思います。大乗仏教の経典を読んでいると、この2)~3)が気が遠くなる程永く、何度も生まれ変わり、ようやく辿り着けるのが3)であることが分かります。つまり、「歴劫成仏」ということになります。確かに、菩薩という言葉は本来は百・千回もの転生を繰り返しながら、無限ともいうべき永い期間にわたって修行を続けた釈尊の前世の名前でした。

ちなみに、後の「般若心経」には「深般若波羅蜜多=深智慧波羅蜜多」という言葉が登場します。何が深・浅であるのかについての記述は経典中にないので不明です。
筆者の考えですが、上記の2)を浅い般若波羅蜜多の獲得としていますので、3)を深い般若波羅蜜多の獲得と解釈することもできると思います。また、「般若心経」を密教的に解釈するのであれば、「歴劫成仏」を浅、「即身成仏」を深とし、「般若心経の大心呪(マントラ)」を唱えることで「即身成仏」が可能となることを説いたとも考えられると思います。

○他力廻向の思想へ発展
脱線はここまでにしておきまして、本題へ戻ります。
やがて廻向は「自分の善根(功徳)を他者の幸福へ振り向ける」という意味を担う言葉になります。つまり、廻向の思想がなければ、法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)の無限の時間にわたる難行による功徳があらゆる有情に幸福をもたらすという浄土教への展開はなかったでしょう。