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ボタンを何度も押し間違えたせいで、正しい番号に電話をかけるまでにずいぶん時間がかかった。意志の力を総動員して指の震えを押さえ込む。受話器の向こうで呼び出し音が鳴る。その音が永遠に鳴っていてくれればいいのにという考えがちらりと頭の片隅をかすめ、つまりはそれが自分の本音なのだという事実を、俺は否応なしに悟る。 これは単に電話をかけて話をするだけ何も罪に問われるようなことじゃないこんなのに騙される方が悪い。今まで自分に言い聞かせてきた言葉は全部、全部自分を誤魔化すためだけのもの
「何度やっても禿頭、という訳ですよ」 カウンター向こうの眼鏡をかけた若い男は、その手元にある用紙に載った俺の名前の上に、赤ペンでシャッと横線を走らせると、唐突にそんなことを呟いた。 地味な灰色のスーツを着た、これといって特徴のない顔立ちの男だ。眼鏡の位置を軽く直しながら、男は何ともいえない表情を浮かべて俺を見つめている。 そう、それはまるで、何度叱っても懲りずに同じいたずらを繰り返す、性悪なガキでも見ているかのような顔つきだった。 俺はついさっきここの窓口に来て、たっ
リビングに入ってきた息子の目は、今朝も真っ赤に腫れあがっている。まだ幼い息子の痛々しい姿に、私の胸もきりきりと痛んだ。 シャルが死んでから今日でもう三日目になるが、息子はいまだにひどく悲しんでいる。だがこればかりは、自分の中で折り合いをつけてゆくしかないことを私は知っている。私自身も、これまでの人生でもう何度も、息子と同じ悲しみを味わってきたからだ。 繰り返せば慣れるという種類のものではない。それでも幾度ものペットの死を通して私は学んだ。胸をえぐる痛みも、息もできないよ
不思議な鼻歌がどこからか聞こえてくる。はずむようなテンポなのに、それを聴くと胸の中のどこかがきゅうっとひっぱられるような、そんな気分になるメロディだった。公園の中でその歌を耳にした浩一は、どこから聞こえてくるのだろうとあたりを見回した。 浩一の通う保育園の途中にあるこの公園の林の中には、いくつもの小道があった。休日になると、雑貨を売る人や絵を描く人などが、そのあちこちにいるのだった。 いつもは一人だけで公園の奥に行ってはいけないと言われている。しかし何故か、今自分のそば
猫を飼ったことのある人ならほとんどみんな知ってることだと思うんだけど、彼らのご機嫌を損ねないようにぼくら下僕、じゃなかった飼い主は、いつもすっごく気をつけてなきゃならない。 ご飯のお好みはウルサイし水だって常に新鮮でなくっちゃいけないし、トイレの掃除を忘れでもしようものなら百叩きの刑だ。爪さえ出てなかったらそれは、百叩きのごほうびって言ってもいいのかもしれないんだけど。 それと、万が一にでも彼らの失敗(例えばジャンプの目測を誤って無様に床に落っこちるところとか)なんかを
若い王とその妃は、城の一室から窓の外に降る雪を眺めていた。世界は一面の純白で、家も畑も何もかもが、分厚いそのベールの下に覆い隠されてゆく。 暖炉が燃える暖かな部屋の中にいても、その光景は王の体をどこか冷たくさせた。次々と課される税で領民の備蓄は乏しい上に、今年の秋の実りは十分ではなかった。冬を越せない民がいったいどのくらい出ることだろう。 王は、うっとりと雪を見つめる妃にちらと目をやった。彼女の見事な髪は頭上に高く結い上げられていたので、整った横顔があらわになっている。
昨夜からの雨は、午後になってなんとかあがってはいた。だが空にはまだ厚い雲がどんよりとたれこめていて、それはおよそ、結婚式には似つかわしくない日和だった。 さすがのあの新婦にも、六月の天候までは思い通りにならなかったか。それともこれくらい、この程度くらいは、天があたしのことを憐れんででもくれたのだろうか。式の会場である林の奥の教会へと向かいながら、あたしはそんなことを思う。 前を歩く同僚二人は、華やかな装いにも関わらずどことなくうんざりとした気配を漂わせている。職場結婚が