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さよなら天国

「何度やっても禿頭、という訳ですよ」
 カウンター向こうの眼鏡をかけた若い男は、その手元にある用紙に載った俺の名前の上に、赤ペンでシャッと横線を走らせると、唐突にそんなことを呟いた。
 地味な灰色のスーツを着た、これといって特徴のない顔立ちの男だ。眼鏡の位置を軽く直しながら、男は何ともいえない表情を浮かべて俺を見つめている。
 そう、それはまるで、何度叱っても懲りずに同じいたずらを繰り返す、性悪なガキでも見ているかのような顔つきだった。
 俺はついさっきここの窓口に来て、たった今男に自分の名前を告げたばかりで、勿論その男に見覚えなんかない。当然奴の言葉の意味もわからない。だがその男が俺に話しかけているのは、どうやら間違いないようだった。「この歌、聞いたことありませんかね?まあ他愛もない、わらべ歌なんですけれども」
 そう言うと若い男は、軽い口調でそのわらべ歌とやらを歌ってみせた。

 ────さよなら三角、また来て四角。四角は豆腐、豆腐は白い、白いはウサギ、ウサギは跳ねる、跳ねるはバッタ、バッタは緑、緑は柳、柳はゆれる、ゆれるは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父の禿頭。

 跳ねるのはウサギじゃなくて蚤だったり、バッタがカエルだったりと途中に出てくる単語にいくつかヴァリエーションはありますけど、最後のオチは決まって親父の禿頭なんですよねえと男は言って、別段おかしくもなさそうに笑った。
 こいつはいったい何を言ってるんだろう。
 俺は少しばかり当惑して、あたりを見回した。俺の左右に長く延びるカウンターには、同じような窓口がいくつもあり、それぞれにたくさんの人が列を作っていた。
 そういえば。俺はふいに気づく。
 ここはどこだ。俺はどうして、こんなところにいるんだ。何のために、この窓口に並んでいるんだ。
「親父を禿にしないようにするには、いったいどうすればいいと思います?」
 俺の動揺など素知らぬ顔で、男が言葉を続ける。
「出だしを変えればいいんでしょうか、途中の単語を変えればいいんでしょうか」
 どんな道筋を辿っても、決まってみんな、またこうなってしまうんですよ。
「禿頭だって別に悪いわけじゃないだろう」
 ため息をつかんばかりの口調に、何故だか弁解するような気持ちになって俺は言った。
 禿は勿論悪かないですよと男は言った。「問題は禿頭じゃないんです。中身が多少変わったとしても、どんなルートをたどろうとも、結局同じところに戻ってきてしまうというのが問題なんです。何度やっても、ね」
「何度やっても?」
「何度やっても、ですよ」
 あなたがここに来るの、これでもう何度めでしたっけね、と男が言った。「禿頭には罪はありませんが、人殺しとなるとそうはいきません」
 ひとごろし。
 その言葉を聞いた瞬間に、俺はすべてを思い出し、そして悟った。ここがどこなのか、俺がどうしてここにいるのか、男が、何を言っているのか。  
 今回の人生で、俺はいったいどこで道を間違えたのだろう。
 アンタ煙草持ってるかいと男に聞くと、男は胸ポケットから箱を取り出し、そのまま俺に渡してくれた。俺がいつも吸っていた銘柄だった。男の手から煙草を受け取るとき、俺の体が指先から透け始めているのがわかった。口にくわえた一本に火を点け、重たい煙を肺いっぱいに吸い込む。文字通りこれが、冥途の土産というやつだ。
「何度やっても禿頭、か」
 吐き出した煙に隠したため息と一緒にそう呟くと、男は慰めるかのような小さな笑みを浮かべた。
「次はどうか、上手くやってくださいね」
「せいぜい禿げないようにやってみるよ」
 冗談めかして言った俺の答えに男が苦笑して肩をすくめる。いつの間にか目の前のカウンターが消えていた。何もない空間に、俺と若い男だけが立っている。頭上を見上げると、遙か彼方に何か光るものが見えた。今回も手が届かなかった光だ。何だか胸がつまるような気持ちにさせる、懐かしくて、懐かしくてたまらない光だった。
 みるみるうちに光は遠くなってゆく。同時に俺は、何か薄暗い闇のようなものが、自分の体のまわりを取り囲むのを感じた。若い男が、憐れむような光を目に宿らせてこちらに軽く手を振った。その姿もどんどんと暗くかすみ、おぼろげになっていく。
 ふいに口から言葉がこぼれた。
「さよなら天国」
 ────また来て、地獄。

 次にはうまく、ゆけるだろうか。

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