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【短編】狛犬あっ、狛犬うんっ
1
人影絶えた夜の街。星の瞬きと信号機の点滅だけが、無人の暗闇で踊っています。車の通りもまばらで、この調子なら数千年先までガソリンは枯渇しなさそうです。ふんわりとした月の揺りかごの中で人々が寝静まったのを見て、静寂が口に人差し指を当てじっと佇んでいます。ただしよく見てみると、街の中心にある神社の境内では、何かがもぞもぞと動いているようです。二つのまるっこい影が月明かりに照らされて、何やらうごめいています。おや、耳を澄ませば声も聞こえてきました。
「いてててて。ああもう、体が固まっちゃったよ。どうしょもないねこりゃ」
「おまえさん、気をつけなよ。台から滑って落っこちないでおくれよ」
「わーってるようるせぇな。いちいちやかましいこと言うんじゃねぇよ」
こんな夜中に何事かと、気になって神社を覗き込んだ人はきっと全員驚くことでしょう。驚いて固まってしまうことでしょう。なにせいつもは固まっている狛犬たちが、動いたり喋ったりしているのですから!
「よっこらせっと。ほぉらどうだい、しっかり地面に降り立ちましたよ。そう言ってるかあちゃんこそ気をつけろよ」
「はいはい、大丈夫よ。よいしょっ」
いつも鎮座している台の上からひょいと飛び降りた二匹の狛犬。どうも夫婦のようです。それも口調や話しぶりからも分かる通り、長年一緒にいる夫婦。で、二匹はお互いに「おまえさん」「かあちゃん」と呼び合っているので、我々もそれにならって、そのままの呼び方をすることにしましょう。
おまえさんは四本の脚をつっぱり姿勢を低くした上で、ぎゅぅぅぅっと伸びをしてから言いました。
「さぁて、今晩も何軒か回んなきゃだな。あそこと、あそこと、あそこか」
「うん、そうだね」とかあちゃんもぎゅぅぅぅっとしながら応じます。
「じゃあさっそく参りますかね。お詣りばかりされてねぇでさ!ははははは!」
おまえさんとかあちゃんは真夜中の街をてくてく歩き始めました。体は毛でもっこもこなので暖かそうには見えますが、季節は冬です。風がかすかに吹いただけでも、やはりぶるぶるっと体が震えます。
「ひぃぃっ!かあちゃんかあちゃん、おっかさんや!今夜もやっぱり肌ざみぃやね」
「うぅぅ、ほんとだね。なんかあったかいものでも飲もうか」
「おうそうしよう。それにほら、一軒目のおみやげにもちょうどいいしな」
そう言うとすぐ近くにあった自動販売機の前に駆け寄り、おまえさんはそこで踏ん張りました。そしてその場でワンワン言ってかあちゃんを呼び寄せ、自分の背中をあごで指し示しました。
「ほら乗って。俺はおしるこね」
かあちゃんはおまえさんの背中に乗って、後ろ足で立ちます。で、たてがみの中にしまっておいた小銭を取り出し、自販機に投入しました。
「えっと…おしるこ…お茶…それと…コーンポタージュ…」
ぺち、ぺち、ぺた。ガタン、ガタン、ガタン。かあちゃんは器用にボタンを押し、お目当ての缶がリズムよく落ちてきました。
「はいおまえさん、おしるこ」
「おう、わりぃね」
しかしここからが少々難儀です。缶は人間用に作ってあるので、二匹には開けづらいことこの上ない。おまえさんとかあちゃんは缶を相手に牙を剥き爪を立て、押さえつけたり抱え込んだりしつつ、地面を転げ回りのたうち回りました。そしてやっとのことでタブを立て、やっとのことでプシュッとできました。
「はぁはぁ…まったく、こういうのはどこの悪党が考えるんだろうねぇもう!」おまえさんはぶつぶつ言いながら、地面に盛り付けたおしるこをペロペロなめました。「まぁまぁまぁ、うまいはうまいですけどね、ええ」
かあちゃんもお茶をおいしそうになめています。ちなみに購入に使った小銭ですが、出どころは、まあ、おわかりのことと思います。人々が神様に届けと願いをのせて放った小銭はちゃんと神様に届いていて、少なくとも神様の関係者たち、もしくは神様界隈には届いていて、飲食代や交際費にちゃんとあてられているということです。
「よしっ、あったまったから行こうや。おみやげは俺が頭の上に乗っけて行くよ」
体が温まったのは缶の中身のおかげか、缶との格闘のおかげかわかりませんが、二匹は再び歩き始めました。コーンポタージュはおまえさんの頭の上で、お祭りの山車の人形みたいな格好で鎮座していました。
2
さて、一軒目の目的地に到着しました。建物の外壁には『昼間岳動物病院』と書かれています。
「おうっ、じゃあかあちゃん、頼むぜ」
「はいよ」
病院の入口の前に進み出たかあちゃんの耳には、鍵の束を通したわっかが引っ掛けてありました。実はここまで来る道中、ずっとそれがじゃらじゃらいっていました。かあちゃんはその中から一つ必要な鍵を選って、両手で掴みました。そして後ろ足で立って、鍵穴に差し込み、ガチャッと回しました。
「うん、開いた開いた。じゃあおまえさん、入ろうかね」
待ての姿勢で大人しく待っていたおまえさんとかあちゃんは、一緒に動物病院の中に入りました。
中には人間の姿はありません。小さい病院なので宿直がおらず、先生は隣接する自宅に戻って寝ています。なので二匹は入院している動物たちがいる部屋まですんなり行けました。そして部屋に入るなり、おまえさんは元気よく挨拶しました。
「えーーーーぃす!よぉみんな!こんばんワン、とか言ってさ!ははははは!」
「どうもみなさんこんばんは、お久しぶりです」とかあちゃんもご挨拶。
そこには犬専用のケージがあって、三匹が入院していました。トイプードル♀、チワワ♀、黒柴♂の面々です。
「わあ、来てくれたんですね!」とプド子。
「おーーっ、やったやったぁ!」とチワみ。
「兄さん姉さん、お久しぶりですっ」と黒崎 柴吾郎。
みんなおまえさんとかあちゃんがお見舞いに来てくれるのを心待ちにしていたようです。この空間にはしっぽが五本あるわけですが、その五本がすべて揃って、右に左に忙しく振られていることからもわかります。
「どうだい具合は?ちったぁいいかい?」
「え、もう全然だいじょぶ。なんでまだ居なきゃいけないのかわかんないくらい」チワみはたしかに元気そうです。
そしてプド子も「私もかなりよくなりました。早くお家に帰りたいです」と回復は順調なようです。
ただ柴吾郎はまだちょっとつらそうで、「いやぁあっしはね、兄さん、はは。まだちょっと痛むんで…」と漏らしました。
というのも女の子二人組に関して言えば似たような事情で、要は若い飼い主があまり知識がない状態で飼育して、運動不足や偏食の積み重ねで具合が悪くなり、一時的にダウンして入院という運びとなっていたのでした。なのでちゃんと運動させてもらえて、ちゃんと栄養のあるものを食べさせてもらえれば、すぐによくなる類の症状でした。でも柴吾郎の場合は、「いやぁ。ああいういい加減な野郎はほっとけなくてね、つい手が出ちまって…」との弁明からもわかるように、他の犬と大喧嘩になり、したたかにぶん殴り合い噛みつき合った結果、かなりひどい怪我を負っていました。
「まぁねぇ、わかるけどさぁ柴吾郎さん」かあちゃんは優しく相槌を打ちます。
「おめぇはよぉ、ちょっと気性が荒いんだよなぁ」と、おまえさんも諭します。「いや、それがまるっきり悪いってんじゃねぇよ。それはほら、勇気とか男らしさとかと隣近所にある性格だからな。ただまぁよぉ、何事もほどほどにしねぇと、仕舞いにはほどほど生きただけであの世行きってことになりかねねぇだろ?」
そう言われ柴吾郎は黙って頷きます。
「そんなことんなったらみんな悲しむだろ?おめぇのようないい男がいなくなっちまったら、世の中のお嬢さんがたはどう思うよ。なぁねぇちゃんたち、悲しいよな?」
「そうそう柴んちゃん!そんなの考えただけでめっちゃさびしいよ!」とチワみ。
「そうですよ柴吾郎さん、自分を大事にしないと」とプド子。
女子たちから激励を受けちょっと照れくさそうな柴吾郎。彼の力こぶをひっこめさせるには、「寸鉄人を刺す」といった調子で鋭い言葉を使って突き刺すより、女子たちのやさしくてやわらかい言葉を塗り込んだ方が、効果的なのかもしれません。
「なっ、だからよ、こういうでけぇ戦は百年にいっぺんくらいにしとこうぜ。おめぇの正義感がよわっちぃわけじゃねぇ、おめぇの正義感が松葉杖ついてるわけじゃねぇってことを証明するためにひと暴れした結果、おめぇが松葉杖つくようになったんじゃ、具合がわるいもんな。ん?あ、そうだ」
おまえさんは話している最中ふと気づきました。おみやげとして買ってきたコーンポタージュのことをすっかり忘れていて、病院に入ってからもずーっと頭の上に乗っけたままでした。
「そうそう、ほらこれ。みんなで飲んでくれよ。たぶんもう冷めちゃったと思うけどよ」
そう言って頭からポトッと缶を落とすおまえさん。しかしこれからが大変です。大変であると同時に見せ場なわけですが、ここを詳述することは、何ページか前の繰り返しになってしまうのでやめましょう。寸分たがわず前出の箇所と同じ絵面になるので、やめておきましょう。要は缶が狛犬用に作られていないということに起因する、汗とホコリと息切れの描写が連続することになるので。
「はぁはぁはぁ…これを作ったやつは、今頃地獄で鬼に追いかけ回されてるんだろうな…まったく…」
かあちゃんがお皿を見つけてきて、おまえさんが苦心惨憺し、艱難辛苦を耐え忍び、刻苦精励の末に開けることを得たポタージュを、みんなに注いであげました。
「どうぞ、めしあがれ」
「あれぇ?わたしたちの分すくなくない?」とお皿を見たチワみが言いました。
するとかあちゃんは、「ああ、女の子ふたりはね、栄養が偏ってたせいで病気になったんだから、こういうのはほんのちょっと、たまのご褒美くらいにしておいたほうがいいんだよ」
「わっ、やさし。ほんとのお母さんみたい」とチワみ。プド子もそれを聞いて、かあちゃんの気遣いにうれしくなり、ニコニコしています。みんなでぺろぺろ食べるポタージュはとてもおいしいものでした。おまえさんという山車に乗って冬の夜の中を引き回されたので、ポタージュはほぼ完全に冷めていましたが、心はぽかぽかでした。そんな風に楽しいお夜食の時間は、あっという間に過ぎていきました。
「さてとっ、ポテトっ!とか言ってさ!ははははは!」上機嫌なおまえさんが言いました。「さてさて、そろそろ行こうかね」
おまえさんの合図で一同立ち上がりつつも、「えーー」と口を揃える入院患者さんたち。みんなしてもう少しゆっくりしていってほしいとせがみました。
「ごめんよ。まだこれから回んなきゃいけないところがあるからさ。でも、そう言ってもらえてうれしいよ」と言ってかあちゃんはにっこり微笑みました。
「つーわけだからよ、一応最後に型通りのこと言っとくと、『お・だ・い・じ・に』っつーことでさ。また来っからよ、元気でな!」
「うん、またね!」
「また来てください!」
「兄さん姉さん、またいつでもどうぞ!」
お客さんたちと患者さんたちはこんな風にみんなしてワンワン言いながら、おやすみまたねのご挨拶をしました。方方で元気よく振られたみんなのしっぽがそよ風に揺れる野の花のようで、病院の中に少し早く春が来たようでした。
3
「そうは言ってもまださみぃやね!外は!」
しばらく病院の中で温まった後の外なので、寒さが余計きびしく感じられます。おまえさんの歯はガチガチ鳴っています。
「かあちゃん急ごう!早く次んとこ行って中入っちまおうぜ!まぁもっとも、あそこは本当ならあんまり入りたかねぇとこだけどよ」
「そうだね、あたしもあそこはちょっと苦手だけど、寒いよりマシだからね」
そう言って二匹は歩みを速めるのでした。
二軒目はかなり大きな建物でした。高さはあまりありませんが、のっぺりと広く、野球場何個分とかいう単位で例えられるような、広大な敷地を有していました。おまけにぐるりと塀をめぐらしてあります。その塀の真下まで来たところで、おまえさんは言いました。
「かあちゃん、こっからはまるっきりかあちゃん頼みだからよ。俺はいつも通り、息ぃ殺しておとなしくしてるぜ。わりぃっ」おまえさんはすまなそうにかあちゃんにお願いします。
「まかしといて。ここにはもう何回も来てるけど、来る度に、あたしは腕がなるよ」
そう言うとかあちゃんは耳でじゃらじゃらいっていた鍵の束を外しました。外した鍵を地面に広げて一個一個指差し確認して、どれがどこの鍵かを確かめました。そうやって几帳面に確認し終わると、かあちゃんは深呼吸を一つしました。そして横でガチガチブルブルいっているおまえさんの顔を見て、言いました。
「さあ、行くかい。おまえさん」
おまえさんはこくりと従順に頷きました。
その後はまるで鍵と扉による演奏会でした。ガチャガチャギィィィ、ガチャガチャギィィィ。いくつもの施錠された扉が二匹の前に立ちはだかります。ガチャガチャギィィィ、ガチャガチャギィィィ。そして時々、ピッ、プシューーーー。これはカードキーとそれに対応するドアの音です。さらに何度かガチャガチャギィィィ、ガチャガチャギィィィが繰り返されました。
一体いくつの扉を解錠したでしょう。かあちゃんによる手馴れた鍵さばきと、おまえさんによる100点満点の沈黙。さらには二匹による200点の隙間すり抜け(犬ですから)と、300点の伏せ(犬ですから!)。こうした映画のような華麗な潜入を行った後で二匹が辿り着いたのは、ある一つの部屋の前でした。そこで最後の仕上げとしてかあちゃんは、その部屋の鍵穴に鍵を入れ、ガチャッと回します。ギィィィ。最後の解錠も首尾よく済んで扉が開くと、二匹は部屋の中にさっと滑り込みました。そしてそこには一人の人間の男がいて、彼に話しかけました。ただし、かなりの小声で。
「ぇぇぇぇぃす。ょぉょぉ大将。こんばんワンなんつってさ」こんな調子でかなりの小声です。
「こんばんはミノルさん、お元気でしたか?」
かあちゃんにミノルさんと呼びかけられた人間の男は、なんだか元気がなさげです。まだ若そうですが猫背で、頬も少しこけています。が、二匹が来てくれたことでほんの少し気分が明るくなったようで、かろうじて浮かんできた笑顔で答えます。
「これはどうも、よく来てくださいました。本当はこんなとこ来たくないだろうし、来るもんじゃないのに」
「いんだよいんだよ、遠慮すんじゃねぇよ。俺達もよ、ここ来るのある意味楽しみなんだよ。なんつぅかこう、たまにはスリルを味わうってのも悪くねぇからさ。なぁかあちゃん」
「そうそう、神社で台座の上に乗っかってじっとしてるだけじゃつまらないからねぇ。だからこうしてたまにはシャバに繰り出して冒険を…」
ここまで言ったところでかあちゃんは突然言葉を切りました。「あっ、まずい」といった調子でした。二匹と一人の間に、一気に気まずい空気が流れます。特にかあちゃんとおまえさんは恐る恐る顔を見合わせます。ミノルはそれを察したので、できる限りの明るさを振りしぼって、かあちゃんに言いました。
「ははは、奥さん。いいんですよ全然。気にしないでください」
これは一体どういうことなのでしょうか。今展開されたこれは、一体何の失言と何の気まずさだったのでしょうか。そもそも何でミノルは元気がなくて、何でみんな小声なのでしょうか。そのあたりの事情についてすべて説明する一言があります。なので回り道せずズバリ簡潔にそれを言ってしまえば、ここは刑務所であり、ミノルは囚人なのです。かあちゃんがここまでガチャガチャギィィィをやってきたのは刑務所内の扉であり、一番最後にガチャガチャギィィィをやったのは独房の扉だったのです。だからこそ、さっきかあちゃんが言った「シャバ」という言葉は、特別な意味を持ってこの独房の中に響き渡り、一瞬にして場を凍りつかせたのです。手に入れたくても手に入れることができないので、とりあえず意識の外に置いておくしかないというようなものについて、言及するという禁忌をうっかり犯してしまった形になったのです。しかし事情はそれだけではなく、さらにもう一個尋常ならざる事情が上乗せされます。
「はは、そうだよかあちゃん。なんたってミノルくんはここにいるべきじゃねぇ、ここにいちゃいけねぇ人なんだからな。本当は何にもやってねぇってことがわかりゃ、しっかり間違いが正されりゃ、すぐシャバに出られる人なんだからよぉ」
そうなのです。ミノルこと罪無 実は、全くの冤罪で収監されているのです。言うのが憚られるような恐ろしい犯罪の犯人とされ、無実の罪を着せられて、本来享受すべき自由を不当に剥奪されて、この独房にいるのです。しかも現在20代の若さの彼も、出所する頃には人生の黄昏時を迎えていることになるような、恐ろしい年数の刑務所生活が言い渡されているのです!
「ミノルさん、そうですよ。これが間違いだってことがわかれば、すぐに出られるんですから、外の世界へののぞみをなくさないでくださいよ」
おまえさんもかあちゃんも彼が無実だと知っています。それは二匹が日頃台座に座ってお守りしている神社のボス、もしくは大親分であるところの神様が、二匹に語って聞かせてくれたからです。彼は何もやってないんだよ、と。彼はかわいそうなんだよ、と。神様が言っているのだから間違いありませんし、だとしたら自分たちにできることを何かしなきゃと思うので、二匹はこうして刑務所まで来ているわけです。
「まぁさ、あんまり考え過ぎねぇことだいね。考えるなだなんて、そう簡単に言うんじゃねぇよって思うかもしれねぇけど、ほんと、病は気からだからさ」
「あぁ…ありがとうございます。お二人の言葉には、いつも励まされてます」
「夜寒いとかどこか痛いとかはないかい?食べるものはちゃんと食べてるかい?」とかあちゃん。
「ええ、そのあたりはなんとか大丈夫です。奥さんはいつもやさしいなぁ…」
二匹はミノルを見上げて心配そうに、しかし心配を表に出しすぎないように、彼の顔を覗き込んでいます。でもこれではあんまりしみったれ過ぎていると思ったおまえさんは、調子を変えて言いました。
「しっかしあれだな、ミノルくん。この世で生きてるとほんと、いろんなことがあらぁねぇ。おめぇなんか昼は座ってりゃいいし、夜はうろついたりワンワン言ってりゃいいしで、ずいぶん楽ちんだと思われるかもしれねぇけどさ、これでも色々あんだよな。神社っつぅのはさ、結構決まりが多くて窮屈だし、ありがてぇ儀式を年がら年中やるもんだから、わりと気が抜けなくて肩が凝るんさね」
「そうそう、拝みに来る人はありがたいものを感じたくて来るわけだから、こっちもそれ相応に振る舞わなきゃいけないんだよねぇ。それが結構気疲れするのよ」
ミノルは微笑しながら相槌を打ちます。
「そういう意味じゃあ俺達もなかなかの重荷を背負ってらぁね。でもその重荷に見合うだけの何かを頂戴してるかっつぅと、こう言っちゃなんだが、(右左とキョロキョロし、指でしぃーっとやった後)そうでもねぇ。神様も忙しいから、入金してくれたやつら全員にご利益配って回れるわけじゃねぇだろ?だから拝みに来たけど良いこと何もなかった連中なんかはぶぅぶぅ文句言うしさ。場所的に言っても基本雨ざらしの吹きっつぁらし、冬はさみぃし夏はバカみてぇにあちぃ。かと思えば今度はやたらパシャパシャ写真撮られたり、断わりもなしにぺたぺた触られたり撫で回されたりする。挙句の果てにゃ、こないだなんかガキに股ぐら覗き込まれて、『こいつタ◯キンがねぇ!』とか言われちゃうしさぁ。当然腹がたったから一発言ってやろうと思ったけど、昼間だから黙って石やってなきゃいけねぇしで、まったく、まいっちゃうよほんとに」
そう言ってうなだれたり肩をすくめたりしてみせるおまえさん。そんなおまえさんの話を聞いて、ミノルも楽しそうに笑っています。
「こうやって改めて考えてみると、世の中良いことばっかじゃねぇやね。生きてりゃ色々苦労もあんのよ」
おまえさんは引き続き、日常の「まいっちゃうよもう」な話や、人生の「冗談じゃないよほんとに」な話、この世の「めんどくせぇから寝ちまいてぇ」と思うような話から「缶が開かねぇ」話まで、ミノルにおもしろおかしく話して聞かせました。その間かあちゃんも程よく合いの手を入れたので、基本ひそひそ声のこの会話も、その声量と場所柄の制約を感じさせないほどに、大いに盛り上がりました。そして何より、ミノルも大いに楽しそうでした。
「だからさミノルくん、あんまり悲観しねぇでくれよな?そもそもこの世にゃうまくいかねぇ事や苦労がごろごろしてて、どうしたってそういうのにぶつかっちまうもんなんだよ。そんならさぁ、それを逆手に取って、色々勉強してやろうや。ぶつかってきた不運を拾って、それでもって自分の根性をぶっ叩いて鍛えてやろうや。そうすりゃおめぇ、ミノルくんなんか一番つえぇ人間になれるよ。間違いねぇよ。要はさぁ、色々経験してみるこってす、ええ」
おまえさんの締めの言葉に、ミノルは深く頷きました。そして最初と比べたら明らかに明るくなった表情で、二匹にお礼を言いました。
「さぁ〜てとっ、ポテトっ。なんつってさ!ははははは!」
「おまえさんしぃぃぃぃっ」
大声を出したおまえさんに対し、かあちゃんが口に指をあてます。
「ぉぅ、わりぃわりぃ…そうだった…。さてと、つーわけで、そろそろ行こうかね。ミノルくん、またそのうち来るからよ、その時まで元気でいるんだぞ」
「しっかり食べて、しっかり寝て、元気な姿で、またお話しましょうね」
「はい、今日はどうも、ありがとうございました。とっても楽しかったです」
そう言ってミノルは、ぺこりと頭を下げました。二匹は独房を出て、再び抜き足差し足で、刑務所の出口を目指しました。
4
「かあちゃんよぉ、トンネル掘った方が早いんじゃねぇかい?おおくそぉっと歩いたもんだから、俺はもうふくらはぎがいてぇや」
やっとのことで外に出た後、おまえさんは随分とくたびれた様子で言いました。それに対しかあちゃんは、耳に引っ掛けた鍵の束をじゃらじゃらいわせつつ首を横に振って答えました。
「あたしたちは狛犬、狛もぐらじゃありませんよ」
この時点で夜もかなり深くなっていました。根が話好きの二匹なので、動物病院でも刑務所でもかなりの時間話し込んでいたのです。というわけで、空という舞台での夜の出番ももう終わりに近づき、朝が楽屋でメイクを始めている、といった段階でした。
「今夜は次が最後だよな。これからあそこまで行って…あれやってこれやって…それからあれもやって…。うぅぅん、間に合うかな。まぁいいや、とにかく急ごう」
「うん、いこいこ」
二匹は早足で最後の目的地に向かいました。
ガチャガチャ。
ガラガラガラ。
「ぺーーーーぃす!よぉよぉ人間さまぁ!こんばんワン、とか言ってみたりしてさ!ははははは!」
目的地の民家の引き戸を開けるなりいきなり、おまえさんはいつもの挨拶をしました。しかも刑務所で押さえつけられていた分をここで発散させるかのように、かなりの大音声で挨拶しました。しかし、家の中はしんと静まり返り、挨拶も返事も何も返ってきません。家の人はどうしたのでしょうか。
「はいはい、わかってますよー。じゃあ遠慮なく入るからねー」
とおまえさん。その口ぶりからするとどうも返事がないのは当たり前のことのようです。二匹は慣れた様子で招き入れる人のないまま玄関から上がり、上がってすぐのところにある寝室に入りました。
「おーい、ばさまや!お犬様が来たぞー!ま、獅子っつー説も捨てがてぇけどよ!ははははは!」
寝室のベッドには一人のおばあさんが寝ていました。夜なので寝ているのは当たり前なのですが、呼びかけても返事がありません。
「おばあちゃんおばあちゃん、こんばんは!勝手に入っちゃいましたよ!」
かあちゃんもかなりの大声で呼びかけました。が、やはり返事がありません。この様子に何かを感じたおまえさんが、チラッとかあちゃんの方を見て、もぞもぞと言いました。
「お、おぉっ…。かあちゃん、これって…」
「まさかっ!何言ってんだいおまえさん!ほらこうやって、ゆすってあげればっ!」かあちゃんはおばあさんの体に両前足を置き、ゆさゆさ揺さぶりながらもう一度言いました。「おばあちゃんおばあちゃん!こんばんは!」
「……ふぇっ?」
するとおばあさんはやっと目を覚まし、目をぱちぱちさせはじめました。
「おぉほっ…起きたか。おいおい、なかなか返事がねぇのはいつもの事とはいえ、色々と想像しちまったじゃねぇか…」とおまえさん。
「…あ、え?…誰だい?」
再起動したばかりのおばあさんコンピュータは引き続き、状況を理解するのに苦労しています。なのでかあちゃんが、
「私達ですよぉ、おばあちゃんっ。いつもの狛犬ですよ〜」
と告げると、おばあさんはようやく状況を理解して、
「ああっ、狛犬さまでしたか!」と言って嬉々として体を起こしました。
おばあさんはいわゆる独居老人でした。もう何年も前に旦那さんが亡くなってからは、この古い家に一人で住んでいました。旦那さんが居た頃も十分お年寄りでしたが、今はもう90に手が届きそうな歳になっていました。息子さんが一人いるそうですが長年連絡もよこさず、どこで何をしているのかわからないといった状態のようです。そうなると当然、日常生活は大変なものとなります。肉体の衰えは容赦なくやってきて、カレンダーをめくるのに合せて骨も筋肉も薄くなっていくようです。そんな無慈悲な老化現象の中でも特に衰えがひどいのが耳で、近くで大声を出してあげないと、なかなか満足に話が通じないくらいです。さっきおまえさんが大音声の「ぺーーーーぃす!」と「こんばんワン!」をお見舞いしても何の反応もなかったのは、そういうわけだからです。
「ばぁさまや。今日もさ、片付けとか掃除とか俺達がやっていくからよ。何か他にもしてほしいことがあったら、遠慮なく言ってくれよな」
「え?なんですって?」
「んん……スゥーーーーっ」
おまえさんは目一杯息を吸い込んでから音量を二倍にして同じことを繰り返しましたが、要はそういうことなのです。一人で暮らすには問題や困難が多いおばあさんのもとに、二匹はこうして定期的に色々と身の回りのお手伝いをしに来ているのです。
「あぁあぁそうでございますか。こんなばばあの所にいつもわざわざお越しくださって、ありがとうございます」
おばあさんはそう言ってぺこぺこお辞儀するので、かあちゃんはやさしい笑みで応じました。
「困った時はお互い様じゃないですか。それにおばあちゃんはいつも、ウチの神社にお詣りにきてくれるしね」
「そうだよ婆さま、かてぇこと言うんじゃねぇよ。ほらほら、早速始めようぜ」
まずは掃除から始めることにしました。おばあさんは根がまじめな昭和の人なので、基本的にはよく片付いていてキレイなのですが、なかなか力が入らなかったり体勢がきつかったりで、磨き残し掃き残しがあったりします。なので二匹は雑巾にぺたんと前足を置き、さらにほうきをガっとくわえて、フキフキサッサ、フキフキサッサとしてあげました。特に雑巾に前足を置く様子は、彼らにとっては何か天与のポーズといった感じで、たいへんサマになっていました。さて次です。おばあさんはやはり重いものを運んだり、高いところにある物を取ったりするのが難しいのでそのあたりの作業をすることにしました。お犬様たちは体重をのせて荷物をぐっと押したり、袋に噛みついてぐいぐい引っ張ったり、棚の上にひょいと飛び乗ってみせたりしながら、移動させたかった物や取りたかった物を希望通りの場所に移してあげました。二匹はおしゃべりも好きですがこういうのも性に合っているようで、それらを躍動感に満ちた様子で、楽しげにこなしました。その他にも草むしり、肩叩き、ペットボトルつぶしに押し車の油差し、電球の交換、猫の餌やり、ラジオの周波数合わせ、障子の修繕等々、おまえさんとかあちゃんは色々とやりました。それこそ時間が許す限り、能力の許す限りのことを全部やりました。おまえさんもさすがに疲れたようで、
「ひぃぃ〜、まあ今日のところはこんなもんだろ?」
と、ぺたんと座り込んでかあちゃんに言いました。
「そうだねおまえさん。目一杯やったから、かなり捗ったね」
「なぁばあさん、よかったな。近所の神社の狛犬が有能でよぉ。言っとくけどさ、どこの狛犬もこうかっていうと、そういうわけでもないんだよ?ははははは!」
「……えっ?」
おばあさんは案の定というか通常通り、おまえさんが何を言っているのか聞こえなかったので、おまえさんが同じことをもう一回、倍の音量で言うと、
「えぇえぇ本当に、いつもいつもお世話になって、ありがたいと思ってます。また神社の方にお詣りに行かせていただきます」
「おうっ、来てくれや。まぁでもあんま無理すんじゃねぇぞ。無理してまで行くとこじゃねぇし、何のこたぁねぇ、家で拝んでたって神様には丸見えなんだからよ。あ、それと」と何か思い出したようにおまえさんは付け足しました。「昼間に神社来た時は、あんまり俺達にぺこぺこしたり話しかけたりしねぇようにな。なんつったって、バレちゃうまくねぇからな。俺達がこんな具合に、ほんとは全然石っぽくねぇってことがよ!ははははは!」
それに対し、もちろん聞き返しと二倍のやつがあった後で、おばあさんは言いました。
「えぇえぇ、ちゃんと気をつけますし、絶対誰にも言いませんよ。それに、なんだか私だけの秘密って気がして、ちょっとうれしくてねぇ。他の人に喋っちゃうのが何かもったいなくって。こんなこともあるんだから、長生きもしてみるもんですねぇ。えへへへへ」
と、しわしわの顔をさらにくしゃっとさせて笑いました。
「おうおうそうだよなっ。…ん?あっ!もうこんな時間か」おまえさんは壁掛け時計を見て言いました。「さぁ〜てとポテトっ!つーことだからさ、ばあさん。諸々気を付けてな」
「あ、おまえさん。さっき集めたゴミ、持って行こうね。今日はゴミの日だからさ、帰りに出して行こ」
「おう、そうだな。じゃ、ばあさま、そういうわけだからさ、また今度な」
二匹はすっかりキレイになった家を後にしました。お見送りに出てぺこりとお辞儀をするおばあさんに、ワン!とひと吠えしてから。
5
「よっこらせ」
ゴミの集積所にゴミ袋を置くと、二匹は走って神社に向かいました。
「いけねぇいけねぇ、もう朝んなっちゃうよ!」
もうすぐ夜が明けようとしていました。空という舞台において夜は最後の台詞を言い終えて、出番を待つ朝が東の舞台袖で、もう表情を作っていました。
「あたしたちはどうもだめだね、おしゃべりがすぎてさぁ!」
「ははっ、どうかなっ。なんつったって俺たちゃ昼間のあいだ中むっつり黙り込んでんだから、喋ってる量を24時間でならしてみりゃ、結構おとなしい人たちかもしんねぇよ!」
「なんかカルピス薄めるみたいな話だね、そりゃ!」
二匹はハァハァいいながら駆けに駆けました。新聞配達のバイクが、近くでブゥゥンとうなっているのが聞こえました。早起きの鳥たちが「おはよー」と鳴き交わす声も、街路樹の中からかすかに聞こえてきました。そして散らばった星を神様が両手で集めて、レゴブロックみたいに箱の中に片付けるガラガラガラッという音も、空から聞こえてきそうでした。そんな夜明けの街をおまえさんとかあちゃんは全速力で駆け抜け、やっとのことで自宅の鳥居をくぐりました。
「ふぅ〜っ、なんとか間に合ったな!」
「まったく、今度からはもうちょっと余裕持とうね。これじゃ普通のワンちゃんたちより走ってるよ」
そう言って二匹は笑い合いました。
「そしたらかあちゃん、そろそろおなじみの狛犬様になる支度しようや」
「うん、そうだね。じゃあおまえさん、この鍵、いつも通りの具合で頼むよ」
かあちゃんは耳に引っ掛けてあった鍵の束を外し、おまえさんに渡しました。おまえさんは両前足でそれを掴むと、
「はいかあちゃん、あーーーん」
と言って、かあちゃんに口を開けるよう促しました。かあちゃんが言われた通りに口をあーーーんとやると、おまえさんはかあちゃんの口の中に鍵の束を収めました。
「じゃあかあちゃん。わりぃけど、今日もひとつ頼むなっ。やっぱりそこが隠し場所としちゃ一番安全だからよ。それにおおくつれぇようなら、明日は俺が代わるからさ。どうせみんなどっちがどっちでも気付かねぇんだから」
かあちゃんは口を閉じたまま、うんうん頷きました。そして鍵を口に含んだまま台座によじ登り、数百年続く、格調高い正式なポーズをとりました。
それを見届けたおまえさんも自分の台座に登るために、一歩二歩と踏み出します。が、ちょっと思案して立ち止まると、引き返し、自分のではなくかあちゃんの台座によじ登って言いました。
「へへへ、かあちゃん。今日もおつかれさまっ」
そして鍵を含んでぎゅっと閉じたかあちゃんの口に、チュッとしました。
「んっ!」
おやまぁといった調子で眉を上げるかあちゃん。おまえさんの方はチュッとするが早いか、自分の台座の方に逃げるようにして駆け、さっさと上によじ登りました。そして照れ隠しをするように「たはぁっ!」といったような、口を開けたおどけた表情をしました。
ちょうどその時です。太陽が東の空に顔を出したのは。日の出を合図にしてたった今、冒険に満ちた夜が終わり、街に朝がやって来たのです。その瞬間、おまえさんの口は「あっ」、かあちゃんの口は「んっ」の形をしていました。そしてその状態のまま、二匹は次の夜にまでおよぶ石化のターンに入ったのでした。人間にとっては何百何千年にわたってお馴染みかつ当たり前になっている、狛犬たちの石化のターンに。
こうして今日も日中の神社における、二匹の「あうんの呼吸」の「おかたいお仕事」が始まりました。肩肘張った態度や格式張った雰囲気があまり好きではない二匹は、台の上でじっとしながらも、頭の中では今夜の冒険の計画を練っているのでしょうか。だとすればご両人、今夜も楽しい夜になるといいですね。おまえさんとかあちゃんにとっても、二匹が行く先々のみんなにとっても、楽しい夜になるといいですね。そうなることを願って、お賽銭が投げ入れられる音が聞こえてくるようです。そしてそのお賽銭で買ったおしるこの缶に、おまえさんの歯が当たる音も。それではまた今夜、月明かりの下でお会いしましょう。おしまい。