『改革が作ったアメリカ』森丈夫の章のファクトチェック(1)ストローパーソン

まず、初期アメリカ史研究の研究潮流について、森がどう理解しているかを吟味していきたい。「はじめに」(特に41-43頁)によれば、リチャード・ホワイトのミドルグラウンド論の登場以後、「諸勢力が拮抗しつつ織りなす多元的な政治空間として北米大陸全体を捉え直す」ことが進んでいるが、「問題点は、各々の研究者が特定の時代・地域の事例をもとに本質的な議論を展開している点」にあるという。そこで、現在「必要」とされているのは「状況論」や「段階論」であるとして、「先住民とイギリス人の間に「ミドルグラウンド」が成立したとすれば、それはいかなる時期の、いかなる状況のもとにあったのか」という問いを立てて、主にヴァージニアやニューイングランドの先住民、そしてイロコイとの関係を考察している。結果、森は、初期アメリカの植民者・先住民関係を一律にミドルグラウンドの状態ととらえるのではなく、各地域・各時代のそれぞれの先住民部族は状況に「差異」があったことを指摘している。

強いて評価するなら、この森の問いから結論までの議論の運びは、各地域の多様性に読者の目を向けさせるための戦略的な工夫として機能している。というのも、これまでの研究者も「状況」や「段階」に注意を向けてきたからである。ホワイトはミドルグラウンドを「ヨーロッパ勢力の侵略や占領とインディアンの敗北や後退のあいだの空間(the area between the historical foreground of European invasion and occupation and the background of Indian defeat and retreat)」、つまり、ヨーロッパ勢力の侵入は始まっているがまだ先住民も敗退していない歴史上の一段階ととらえていたし、ダニエル・リクターもホワイトの議論に対し、「初期アメリカのほとんどの時代と場所において、インディアンとヨーロッパ人は永続的なミドルグラウンドをつくりあげることができなかった(in most times and places of early American history, Indians and Europeans failed to create a lasting middle ground)」ことを注意していた[1]。森が参考文献にあげているマイケル・レロイ・オバーグも、ニューイングランドやチェサピークを「第一のフロンティア」と呼んでそこの先住民が1670年代までに征服されたことを説明しており、次の段階として第二、第三のフロンティアが他の地域にできていくことを含意していた[2]。

したがって、多くの研究者がそれぞれいろいろな地域を対象に「状況」や「段階」をふまえながら植民者・先住民関係の研究を蓄積させてきた。当然ながら、各植民地の建設開始時期や気候風土、先住民側の事情が異なっていたために、各地域によって植民の進捗は違いがでてくるし、沿岸地域とやや内陸の先住民では植民勢力から被った影響は時期によって程度も種類も変わってくる。2019年7月の『ウィリアム・アンド・メアリ・クォータリー』誌が、セトラー・コロニアリズムの「構造」(永続性)を強調するパトリック・ウルフの議論を、「プロセス」(段階的過程)と修正して初期アメリカへの適用を考えたのもその1つの表れである[3]。森は、時間的・空間的に広大な近世北米の200~300年間(この論考が直接扱っているのは17世紀の約100年間)を一様とみるありえそうもない問いをいったん立てたうえでそれを否定するという手法をとっており、スタート地点とゴール地点を一致させて既存の歴史像を再確認している。

その問いを立てるにあたって森が画一的歴史像として批判したかったのは、リクターが「一八世紀のイギリス植民地―先住民関係」を「安定しているが、苦々しく、平和的な共存関係(a stable, begrudging, mostly peaceful coexistence)」と表現したことだが(58頁)、これが濡れ衣であることは上の引用が示す通りである。リクターの『インディアン・カントリーから東を向く』からのこの切り抜きの文言は、状況や段階の軽視を意味しない。その構成をみると、森が議論に入れているヴァージニアやニューイングランドの沿岸地域の先住民についてはその前で記述を終え、その章で18世紀の考察対象にしているのは、17世紀にはまだ植民地とやや地理的距離が保たれていたイロコイなどであった。もしくは、リクターが大西洋岸の先住民との関係も含めてその表現を使っているとしても、もはや戦争状態になくなったという意味では「安定」かつ「平和的」で、当該の先住民にとって「苦々し」かったと言いたかったのかもしれない。いずれにせよ、リクターが状況や段階を理解しているのは他の出版物からもうかがえる。オクスフォード・ブリテン帝国史シリーズ所収の論考では、17世紀初頭からヨーロッパ勢力の入植活動が本格化したこと、1710年代までにブリテン勢力が大西洋沿岸部の先住民の征服を概ね完了したこと、しばらくのあいだやや内陸部の先住民と「壊れやすくもある均衡状態(fragile equilibrium)」が生じたこと、そして、18世紀半ばにフランス・ブリテン勢力の拡大でその均衡が崩壊したことを整理している[4]。リクターと森は同志にみえる。

以上のように、森の先行研究の把握は怪しく、先行研究に対して自身が主張するような重要な問題提起をするものではないし、新規性・新奇性を持つものでもない。しかし、過度に均質的な理解ではなく、状況や段階をみていくという姿勢は、先行研究に一致して正しいものとなっている。したがって、読者は、とりあえず序章の途中の困惑を忘れ、気持ちをリセットして本論を読み進めてよい。では、本論で展開される実際の状況や段階についての森の説明は妥当なものになっているだろうか、それはまた別の問題として記事を改めて検討することにしよう。


[1] Richard White, The Middle Ground: Indians, Empires, and Republics in the Great Lakes region, 1650-1815 (Cambridge, New York: Cambridge University Press, 1991), x; Daniel K. Richter, "Whose Indian History?" William and Mary Quarterly 3rd ser., 50, no. 2 (April 1993): 379-393 (esp. 390). 日本語文献でもミドル・グラウンドの時間的限界が理解されていないわけではない。遠藤泰生「多文化主義とアメリカの過去:歴史の破壊と創造」油井大三郎、遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ』(東京大学出版会、1999年)、第1章(特に44-48頁)。

[2] Michael Leroy Oberg, Dominion and Civility: English Imperialism and Native America, 1585-1685 (Ithaca, New York: Cornell University Press, 1999), 6.

[3] Jeffrey Ostler and Nancy Shoemaker, “Settler Colonialism in Early American History: Introduction,” William and Mary Quarterly 3rd ser., 76, no. 3 (July 2019): 361-368 (esp. 364).

[4] Daniel K. Richter, Facing East from Indian Country: A Native History of Early America (Cambridge, Mass: Harvard University Press, 2001), 151; idem, “Native Peoples of North America and the Eighteenth-Century British Empire,” in The Eighteenth Century, ed. P. J. Marshall, The Oxford History of the British Empire, vol. 2 (Oxford: Oxford University Press, 1998): 347-71 (esp. 356).

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