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【中華民國とアメリカ】(そのニ、清朝の時代)
明治維新の前夜、1853年ペリーの黒船が浦賀沖にやってきて、日本に開国の要求を申し入れます。日本とアメリカの邂逅はこの時になるでしょう。
アメリカ政府が軍艦を派遣し江戸幕府に開港を要求する理由は、アメリカの捕鯨船の水と食料の補給基地を太平洋の西側に持ちたいということでした。この当時、アメリカの捕鯨船は太平洋を席巻しており、日本の東海岸沖にもその姿を現していました。水戸藩が尊王攘夷の先鋒になっていくのは、この様な歴史的背景があります。
1852年に、ペリーは琉球王国にも上陸して、翌年の江戸幕府に対するのと同じように、開港の要求を出しますが、これは婉曲に拒否されています。
では、この時代、清国とアメリカの交渉はどのように進んでいたのでしょうか。
アメリカの建国と米中関係の始まり
Wikipediaに、清朝の時代の米中関係に関する簡潔な説明がありますので、まずこれを訳出してみます。
1784年,僅成立不到一年的美國,為開拓被英國所封鎖的海外貿易路線,派遣戰艦所改裝的武裝商船中國皇后號載著以人蔘、皮毛為主的貨物,出發前往澳門港與清廷進行貿易。船隻進港後嗚砲十三響作紀念,並掛起13星的美國國旗,是為美國國旗第一次在中國範圍掛起。也很有可能是第一批擁有美國國籍的人進入中國範圍。是為中美關係之始。
1843年,顧盛擔任首任美國駐華專員,駐地在澳門。1844年,顧盛簽署了美國與中國的第一個條約《望廈條約》。1858年清政府在在第二次鴉片戰爭戰敗後與美國簽訂《中美天津條約》。1862年,美國在北京東交民巷建立駐華公使館。1878年,大清國在美國華盛頓建立常設性駐美公使館,首任公使陳蘭彬。
1882年5月6日,美國總統切斯特·艾倫·阿瑟簽署的一項法案《排華法案》,成為《美國法典》的一部分。是1880年對《中美天津條約續增條約》的修訂,允許美國暫停華人移民,美國國會根據修訂的條約,很快就制定了這項法案。
1901年,清政府與美國等十一國簽署了《辛丑條約》。1902年,美國政府抗議俄國在義和團之亂之後拒不撤兵滿洲違反了門戶開放政策。1905年,日本在日俄戰爭後取代俄國取得滿州南部,美國和日本共同承諾要維持在滿洲的平等,但美國承認日本在華特殊利益(藍辛-石井協定)導致減低門戶開放政策的約束力。在金融上,美國努力維護門戶開放政策,成立了一個國際財團。中國的鐵路貸款通過它實現各國貨幣之間的兌換。1908年,美國免除部分庚子賠款,用於遊美學務處的建設。三年間共組織三批近200人赴美留學。
1784年、成立して1年もたたないアメリカは、イギリスによって封鎖されていた海外貿易のルートを開拓するために、朝鮮人参や毛皮や革製品を積んで、戦艦から武装商船に改装されたEmpress of China号をマカオに向けて派遣し、清国との貿易交渉に臨んだ。船は入港の際に13発の礼砲を放ち、13の星を示したアメリカの国旗を表わした。この時アメリカ国旗は、始めて清国において掲揚された。これは、恐らくアメリカ籍の船舶が初めて中国の領域に入った出来事だったであろう。米中関係の嚆矢と言える。
1843年、アメリカの駐在弁務官としてケイレブ・クッシング(Caleb Cushing)がマカオに派遣された。1844年、クッシングはアメリカと中国の間の初めての条約《望廈條約》を締結した。1858年、清国は第二次アヘン戦争の敗戦後、アメリカと《中米天津條約》を締結した。1862年、アメリカは北京の東交民巷に在中公使館を設立した。1878年、清国はアメリカワシントンに常設の在米公使館を設立し、公使として陳蘭彬を派遣した。
1882年5月6日、アメリカ大統領チェスター・アラン・アーサーは《排華法案》に署名、アメリカの法体系の一部とした。これは、1880年の《中美天津條約續增條約》を修正したもので、アメリカが中国からの移民を暫定的に受け入れないということを定めている。アメリカの国会はこの修整案に基づき、短期間にこの法案を成立させた。
1901年、清朝政府はアメリカを含めた11カ国と《辛丑條約》を締結した。1902年、アメリカ政府はロシアが義和団の乱以降満州からの撤兵をせずに、清朝に対する門戸開放政策に違反していると抗議をした。1905年、日本は日露戦争後に、ロシアが満州に持っていた満州南部の権益を引き継ぐことになり、アメリカと日本は共同で満州における平等な権利を維持することに同意した。アメリカは、この際に日本が中国において特殊な権益を有することに同意しており(ランシング-石井協定)、門戸開放政策の拘束力を弱めている。金融政策上、アメリカは門戸開放政策を維持する様努力しており、そのための国際財団を設立している。中国の鉄道建設借款は、この財団を通して各国の通貨と交換できる様にした。1908年、アメリカは清朝の借金の一部を免除し、アメリカにおける留学助成学務処の建設に当てることに同意した。3年の間に。この組織を通して約200名の留学生がアメリカで学んだ。
イギリスからの独立と、清朝とのファーストコンタクト
アメリカのイギリスからの独立は、1783年のことです。それ以前は、アメリカ独自の清国との交渉はなかったということです。ですので、1784年というのがアメリカが清朝との交渉を始めた最初の年になります。日本に黒船がやってくるのは、1853年なので、実にそれよりも70年先だってアメリカと清朝は交渉を始めているということです。
しかし、この時代清朝は基本的に貿易の統制政策をとっており、西欧諸国に対しては、広州、厦門、寧波しか開港していませんでした。
この時期のアメリカは、ようやく独立国としての体裁を整え、イギリスの後塵を拝して清朝との交渉を始めつつあった。そのような状況であったと想像できます。
アヘン戦争と清朝の開国
1839年から1842年にかけて、イギリスと清朝の間でアヘン戦争が起こります。このイギリスによる強引な戦争により、清朝は開国を迫られます。貿易の拠点として、さらに福州と上海を開港するよう要求され、香港の割譲も求められます。これに便乗しマカオの地もポルトガルの領土とされてしまいました。
この際、欧米列強はイギリスに準じた待遇を清朝に対して要求していきます。アメリカも、その恩恵にあやかります。この時期にアジアで力を持っていた国々は、イギリス、オランダ、フランス、ドイツなどでしょう。アメリカは、このグループの末端に連なり、イギリスと同様の最恵国待遇を得ることになります。
このあと、1856年から1860年にかけて第二次アヘン戦争が起こり、清朝の準植民地化がさらに進んでいきます。そして、清朝とアメリカの間の正式な外交関係が結ばれる様になり、公使館を互いに設立させる運びになります。
このあたりが、アメリカと清朝間に対等な国家としての関係が結ばれ始めた時期と考えられるでしょう。
清朝末期の混乱と《排華法案》の成立
1882年に《排華法案》が定められるとあります。この法案のことは知りませんでしたが、1870年代に清からアメリカへの移民があまりに増えすぎ、アメリカ国内の雇用に影響が大きくなったこと、アメリカでは南北戦争が起こり経済的に厳しい状態になったことから、それまでは反発がありながらも許容されていた中国人の移民を、基本禁止するという法案なのだそうです。
Wikipedia に移民の数を表した表があったので転載しますが、1960年代になると、毎年10,000人ほどの移民がやってきています。当時のアメリカにとって、この人口プレッシャーは耐えがたいものだったのですね。当初は州単位で禁止されていたものが、アメリカ全国に適用される様になるという経過を辿っています。
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この《排華法案》というのは、第二次世界大戦が始まり、中華民国が連合国の一員となり、アメリカの同盟国となるまで有効でした。1943年になりようやく廃止されています。
その間、アメリカが中国人を名指しで排除していた、民族差別につながる悪法であったと現在はみなされています。
以前、この時期の清朝からアメリカへの移民というのは、ゴールドラッシュやアメリカ横断鉄道の建設というアメリカサイドの理由の他にも、清朝側の国内の混乱も関係しているのではないかという考察を書きました。
太平天国の乱から第二次アヘン戦争にかけて、清朝国内の混乱が続き、その後には清仏戦争、日清戦争と連なっていきます。清朝は厳しい経済状態に置かれていると想像できます。その様な末期的な状況の清朝から離れて、アメリカに新天地を求めるという、中国人側の自発的な動機もあったのではないかと考えています。
義和団の乱の後の混乱
上記の説明によると、義和団の乱の後始末のために清朝が欧米欧米各国と条約を結び賠償金を払う、その後ロシアが満州に圧力をかけて来たために、日本とアメリカが共同歩調でこれに抗議すると事態が進んでいます。
この時期の清朝は、自ら海外の勢力を追い払う軍事的実力を持っていないために、夷を以て夷を制す。ロシアの勢力を追い払うのに、日本とアメリカの力を使おうと考えています。これが、中国の国土において日露戦争が起こり、満州国の成立という事態に発展していきます。
そして、アメリカの軍事力の傘は中国まで届いていないために、中国に対する政策は、どちらかというと人道的で友好的なものになっている様に感じられます。
孫文が海外の華僑団体に働きかけ、清朝を倒すという革命運動を始める前夜、アメリカと清朝の関係はこの様な状況でした。
移民の問題により、外交的には好ましいものではなかったと言えますが、多国間外交という面で言えば、清朝に軍事力を実力行使するほどの影響力を持っていません。
アメリカにとって、太平洋の西岸にある日本と中国は、まだ遠い国であったのでしょう。