【明清交代人物録】洪承疇(その二十八)
次に、洪承疇の元にポロがやってきて、福建の鄭芝龍を捕えるまでの経過を辿ってみましょう。
ドルゴンは征南軍に対し招撫策を基本とする様に指示をしています。そして、洪承疇はこの方針に則り、漢族の人間関係を駆使して各地の指導的人物を説得してゆきます。鄭芝龍などは、全くの同郷の人物であり、王朝への忠誠心も薄い。清朝への投降を最も説得しやすい相手だったでしょう。鄭芝龍は、清朝に対し徹頭徹尾、無抵抗でいます。
これだけお膳立てが整っているのに、鄭芝龍が1人捕らえられ北京に連行されるということが、とても腑に落ちません。
どの様な経緯でこの様な結果になったのでしょう?
徽州の戦いと黃道周の死
江南の王都とも言える南京を落とした後、清軍は安徽省の徽州をターゲットとします。この地では単独で清軍と戦える力は持っておらず、福州の隆武王朝に対して救援要請を出します。
隆武帝はこの要請を受けて、徽州に援軍を出そうと考えますが、福建で軍事力を支配している鄭芝龍は一向にこの要請には応えませんでした。鄭芝龍は、すでにこの時点で清朝に対して抵抗することを放棄しています。暗に隆武王朝のことを見限っていたのでしょう。
隆武帝は、鄭芝龍が動かないので、代わりにこの救援軍を出す任務を黃道周に命じます。しかし、黃道周は文官です。軍隊指揮の経験を持たず、また、そもそも隆武帝の周りに、彼の意向で動く軍隊そのものがほとんどありません。そのため、黃道周は市民の中から義勇軍を募り、無謀な戦いに臨むことになります。この軍隊は"君子軍"と呼ばれていたそうです。君子の軍隊。戦うためではない、文人官僚の率いる、使い物にならない軍隊。そのような揶揄的なニュアンスをこの名前からは受けます。
果たして、この"君子軍"は清朝の軍隊とぶつかると、あっという間に瓦解してしまいました。福州で出発の際には1000名いたものが、戦場に近づくに連れ人数が減り、最後には300名になっていたそうです。そして、徽州の救援には全く役にたたず、戦場で軍は崩壊、黃道周は囚われの身になってしまいます。そして、徽州も清軍の手に落ちます。
黃道周は捕虜となり、洪承疇の陣に送られました。洪承疇は同じ元々明朝の官僚であった誼みから、彼に清朝の元で事える様。説得を試みましたが、黃道周はこれを拒否します。洪承疇は黃道周を救おうと努力しましたが、投降しない意思が動かないことを確かめると、彼を殺さざるを得ませんでした。清の元に降らないものは殺せ。これは、ドルゴンからの厳しい命令でした。
浙江魯王政権の瓦解
清朝の次のターゲットは、浙江で反旗を翻している魯王政権でした。このタイミングでポロが登場してくることになります。
この魯王は隆武帝となった唐王と比べると、血筋において崇禎帝からは遠い家系にあります。その点から考えると、この政権は隆武帝の指揮下に入ることが軍事的にはより有効な形でした。しかし、ここでも明朝末期のお家芸である、お互いに協力できないという問題が表面化します。魯王の臣下張國維は、自らが隆武帝指揮下の軍団の中に入ることを良しとせず、独立して清朝に立ち向かうことになります。
江南地方は水郷地帯でもあり、多くの河川に行手を阻まれる地勢にあります。魯王の元で軍事指揮をとる方國安はこの地の利を生かし、清朝の軍団に対抗することを考えました。
ポロはこの水郷地帯での戦闘に不慣れなこともあり、ここでは戦果を上げられませんでした。河川渡河をしようにも、騎馬部隊を乗せる舟もなく、立ち往生してしまいます。
とは言え、方國安側もこの絶好の好機をつかむことが出来ず、撤退をしてしまいます。この人物も軍事の機微には疎い文人将軍でした。
結果として、魯王は杭州から福建に撤退することに成功します。
ポロは、浙江省の占領という戦果は上げましたが、軍事作戦としては何ら華やかな結果を得ることはできませんでした。これは、満州貴族の軍事指導者としては悔しい思いだったでしょう。海と河という不慣れな戦場で、魯王政権の主要な人物を全員取り逃してしまったのです。
ポロはこのような事態になったことを洪承疇に相談しました。そして、何ら軍事的な成果を得られなかったことを残念がりました。
それに対して、洪承疇は「福建では心配することはないでしょう。お膳立ては既に整えています。充分な成果をあげることができるでしょう」と伝えました。
無抵抗の鄭芝龍
安徽省、浙江省を占領した清軍は次に福建省に向かいます。この地は、洪承疇の生まれ故郷です。さらに、既に清朝の元に下った晉江出身の進士である黃熙胤もいました。そして、招撫策を仕掛ける相手は、商売人上がりの武官である鄭芝龍です。洪承疇は、ドルゴンの方針に従い鄭芝龍に、清朝の傘下に入る様説得の書を送ります。
鄭芝龍は、この事態になる遥か前から清朝に対する敵対行動を起こしていません。徽州の応援に行けという命令が隆武帝から出た際も、これを無視しています。彼は軍隊の温存を図ったという説明もありますが、これはその後の戦闘の準備とは見えません。清朝の軍隊をそのまま迎えるために、余計な戦いはしないという方針を徹底させています。
そして、鄭芝龍は福建という天険に守られている土地の関所の軍隊を引き上げさせます。隆武帝により清朝と戦うべしという指示に対し、彼は言を左右にしてそれを実行しないばかりか、戦闘に当たっては最重要地である仙霞關を明け渡してしまうのです。そして自らは、隆武帝を見捨て福州から離れ、根拠地である安海に引き篭もります。
ボロの軍隊は、なんの抵抗も受けず福州に入ります。そして、隆武帝は逃げる算段を持たず捕えられてしまいました。この隆武王朝も、清朝を相手に何らなす術もなく崩壊してしまいました。その原因は鄭芝龍にあります。彼が、そもそも清朝に敵対する意思を持っていないので、皇帝一人が命令を出しても如何ともしがたい状況でした。
鄭芝龍は、安海で清軍の使者がやってくるのを待っていました。既に洪承疇と黃熙胤からの連絡があり、彼は、清軍の元に降る意思を示しています。そして、前線の司令官であるポロからも、鄭芝龍を清朝の高官として迎え入れるので、清軍の陣にやってくるよう連絡がありました。
「私は将軍のことを重んじています。将軍こそが唐王を擁立している。臣たるもの主に仕えてこそ事を成すことができます。将軍が明朝に仕えているのは、機を得て功を成しているので、それは傑物たる人物だということの証明でしょう。将軍が我が清軍に加わるのであれば、次の様な立場を用意しようと考えています。今はまだ広東と広西が治っていません。ですので、将軍には福建と両広の総督印を預かってもらいたい。私が将軍に会いたいと考えているのは、この地方の人材を推挙いただきたいと考えているからです。」
鄭芝龍は、この事態の展開に何の疑いも持っていませんでした。清朝征南軍のトップ洪承疇と、同郷の進士である黃熙胤の肝煎で、清軍の招撫策に応じるのです。これは、北京のドルゴンの基本方針でもあり、実際に清朝に降った上で、新たな役職を得ている明朝の官僚は沢山います。
この時、息子の鄭成功を初めとして残された鄭家軍の人間は、鄭芝龍に対して魚は海を離れるべきではない。同じように、我々も海という根拠地から離れるべきでないと説得したとあります。
僕は、これはかなりの部分、後付けで脚色された物語であろうと考えています。全体の状況として、このように根回しが済んでいる。それであれば、鄭芝龍のこの判断は正しく、通常であればそのまま清朝に迎えられたのでしょう。
しかし、ポロがここで行ったのは鄭芝龍を騙し打ちにすることでした。満州族貴族として軍事的成果を得るために、鄭芝龍だけではなく鄭家軍全体を嵌めたのです。