【明清交代人物録】洪承疇(その二十四)
漢族による清朝に対する反抗の事例として2つの事件を取り上げます。これは、南明の王朝を立てて清に組織的に抵抗するのではなく、全く軍事力も組織力もないままで、ただただ清の剃髪令には服するわけにはいかないと、清朝に背いた市民の抵抗の事例です。
漢民族の剃髪令に対する反対は、清朝の統治時代の間一切止むことなく、清朝の滅亡まで続いているという見方もあります。
そうでなくとも、清朝初期の満州族王朝に対する反対運動は、短く見ても永曆皇帝が亡くなり鄭成功が福建から追い落とされる1661年まで、或いは三藩の乱が勃発し漢族の王達が滅ぼされ、台湾にあった鄭氏政権が崩壊する1683年までは組織的な対抗が続いていたのだと考えられます。
その様な漢族による満州民族による反抗の火が上がるのは、嘉定が初めてではありません。それよりも前の時点で江陽において、大規模な剃髪令に対する反対と武力闘争が起こっています。
江陽における反対運動
江陽は江南省の大都市で、揚子江下流の重要拠点です。1645年6月、清朝は江陰を占領した後に、江陽を治めるために、明から清に投稿した役人、方亨を派遣しました。彼が江陽に来た時には、まだ明朝の役人の服装を着ていました。
彼は民衆に対して剃髪令を命じましたが、その詔勅にあった“留頭不留髮,留髮不留頭”(頭を残すなら髪を切る、髪を残すなら頭を切る)などの言葉に民衆が激昂し、髪を残すことを認めろと騒ぎ出しました。
方亨がこれを許さなかったところ、群衆が「お前は明朝の進士だろう。明の服を着たままで清の役人におさまっているなんて、恥ずかしくないのか!」と叫び出しました。そして、民衆の怒りは大規模な暴動に発展していきます。数万人の民衆が役所の前に集まり、騒ぎ出しました。
方亨は、事態が危ういと感じ、城門を閉じ常州の太守に対し救援を求めました。しかし、その伝令が民衆に捕まってしまい、民衆はそれにさらに反発を加えました。方亨を捕え吊し上げて、"頭可斷,髮不可薙!"(頭を切っても、髪は切らんぞ!)などとスローガンを掲げ、10万人もの集団に膨れ上がりました。彼らは元明朝の役人であった閻應元をリーダーに祭り上げ、徹底抗戦を叫びました。
この大集団になってしまった民衆の反抗に対して、清軍は手詰まりになってしまいました。ドルゴンは直接詔書を書き、ドドを派遣して説得に努めましたが、閻應元はそれに応じず抵抗を続けました。
清軍は、江陽の人々が抵抗をやめないので、周辺各地から軍隊を集結させ、3ヶ月にわたる戦闘を繰り広げて、人民の抵抗を鎮圧しました。
この戦いで清側も大きな被害を出しましたが、その報復として江陽の街を3日間に渡り、掠奪し尽くしました。小さな子供の命は残しましたが、成年は男女を問わず殺し回ったそうです。
嘉定三屠
江陽の東南に位置する嘉定でも、大規模な民衆暴動が起こります。清軍が嘉定に入ると共に人民の不安が高まります。そして剃髪令が公布されると、パニックが起こってしまいます。
交付された翌日、人民は剃髪令反対の旗を掲げ義勇軍を結成します。そして、郊外に駐屯していた清軍を攻撃、84名を殺害、40数艘の船を焼いてしまいました。清軍は、残った兵を引き連れて、いったん吳淞に退却します。
数日後、清軍の義勇軍に対する攻撃が始まります。嘉定の民衆による抵抗は12日間続きましたが、清軍は攻城のための大砲を持っており、砲撃で城壁を破壊し始めます。雨の降る中、義勇軍は対抗する力も尽き果て、破壊された城壁からの清軍の侵入を許してしまいます。そして、民衆の抵抗は崩壊してしまいました。ここで、清軍は主だった義勇軍の戦士2万人を殺害します。そして、街の財宝を船に乗せ持ち去ってしまいました。これが嘉定の1回目の大虐殺です。
しかし、20日後、嘉定の人民は再度反乱軍を組織し、清の駐屯軍を攻撃し、街から追い出してしまいます。これに対し清軍はすぐに平定の軍を送り反乱軍を撃滅します。これが2度目の大虐殺です。
その約1ヶ月後、今度は明の軍人吳之藩が反乱軍を組織し、嘉定の清軍に対し攻撃を仕掛け、彼らを追い出すことに成功します。しかし、この占拠も長続きせず、最終的には失敗に終わります。そしてこの戦いの失敗に伴い、嘉定の人民は3度目の虐殺に遭ってしまいます。
漢民族の感情的な反発
この"嘉定三屠"という事件は、孫文による辛亥革命の前夜、満州族による残虐な悪事の事例として宣伝され、現代でもその様な趣旨で説明されていることが多いです。
しかし、清朝の剃髪令に抵抗すればこれを処罰する、従えば危害は加えないという風に明確な指示が出ていますので、これらの街では最悪この様な事態になると覚悟をした上で、反抗の軍を組織しているはずです。
例えば、南京では無抵抗を徹底し、錢謙益が清朝の命令に従う形で、平和的な権力移譲を実施しています。その様な、政治的決断をして民衆の反対意見を収める政治家がいるかいないかで、状況は大きく異なる様に思います。残念なことに、江陽においても嘉定においても、その様なリーダーシップをとれる政治家がいなかったがために、民衆の剃髪に反対する感情を抑えきれなかったのでしょう。
清軍の側では、抵抗するものはこの様な目に合うという見せしめのためという意味が大きいと考えられます。この様な事例を示すことで、剃髪令に反対するものは、本当に殺すぞという意思を実際にやってみせ、民衆の服従を促すということです。
一方の清朝の側も、期限を切って剃髪をさせるという強引な政治方針が、この様な混乱を巻き起こすということを、充分には配慮をできていなかった様に思います。これが10日の期限でなく数ヶ月、或いは1年という期限であったら、事態はこれほど悪化しなかったかもしれません。ないし、その他にもこの政策の実施のために漢族のスタッフの意見を取り入れてソフトランディングできる工夫はあった様に思われます。それが、頭から非常に強硬な物言いで、有無を言わせず期限を切って実行させる。この様な指示があったことで、現場では不要な混乱と闘争が起こったのでしょう。
僕は、この時清朝の政権の中枢には多くの漢人のブレーンがいたので、剃髪令が引き起こす漢人の感情的な反発に対しては、ドルゴンは充分に聞き及んでいたのだと思います。しかし、その様な声があっても剃髪令は実行する、それも期限を切って速やかに実施する。その様な意図は、前回紹介した詔勅からも明らかです。
僕は、ここには満州族が漢人から受けてきた侮蔑に対する反抗、怒りが彼らの感情的な問題としてあったのではないかと想像しています。清朝が中国東北地方で一少数民族として生活していた時代、彼らは漢民族から、弁髪のことを文明的に遅れた蛮族が、奇怪な風習による髪型にしていると、蔑まされていたのでしょう。過去に漢族から受けたこの様な侮蔑に対して、ドルゴンは我慢がならないと考えており、漢族に弁髪を強要するという政治判断をしたのでしょう。漢族のブレーンからのどんな反対があってもこれは実行する。その様な強い意思を持っていたのではないかと想像しています。
そして、その民族のプライドをかけた問題として剃髪令がある。起こるべくして起こった衝突という気がします。
この様な、満州族の止むに止まれぬ問題として剃髪令が発せられ、それに対して漢族の民衆から軍事的には何の根拠もない感情的な抵抗が起こり始める。事態はその様に進み始めます。
そして、この民衆の動きと南明政権の動きが一体となった時、清朝に対する反対の動きは、簡単には抑えられないものになっていきました。