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【明清交代人物録】洪承疇(その二十九)
ポロの陣に呼ばれた鄭芝龍は、彼に同行した部下と切り離され北京に送られます。それは、彼を清朝の高官として迎えるという形ではなく、囚人として護送するというものでした。
ポロの裏切り
鄭芝龍は、ポロの陣に出向く際「清朝の元で働きたいものはこの私に声をかけてくれ。いくらでも欲しい官職を与えてやるぞ。」と豪語していたそうです。清朝での三省総督の座を約束されたことに、とても油断していたのでしょう。
鄭芝龍は、ポロの陣に多数の部下を連れてやって来ました。そして、3日間に渡る宴会が催されました。その後、ポロは鄭芝龍一人を呼び出します。そこで、ポロは鄭芝龍に北京にいる順治帝に直々の目通りをできる様、手筈を整えている。是非、北京に行ってもらいたいと話を切り出しました。
鄭芝龍は、この南征軍の編成が洪承疇の仕切りになっていることを知っており、てっきり南京に行き同郷の人物に会えるものだと考えていたので、違和感を感じました。しかし、それは伏せておき「北京に向かうことはやぶさかではないが、腹心の部下数名を同行させたい」と申し出ました。
これに対しポロは答えました。「それはなりません。貴方一人を北京で迎えるというのが皇帝の命です。これに従ってもらいたい。」
そして、背後にいた満州旗兵が鄭芝龍を取り押さえました。「貴方には、一人で北京に行ってもらう。心配しなくて良い。一緒に来ているあなたの兵には、安海に帰ってもらう。」
鄭芝龍は遅ればせながら異変が起こったことに気がつきました。ポロは自分を裏切ったのだと。
「ポロ殿。私にこの様な仕打ちをすると、大変なことになるぞ。我等、鄭家の軍隊は貴方たちの軍隊に対する十分な力を持っている。しかも、ここは福建だ。海によって立つ土地だ。貴方たちの騎馬兵では太刀打ちできない。後悔することになる。考えを変えた方が身のためだぞ。」
ポロは、鄭芝龍のこの言葉には口を出さず、部下に鄭芝龍を連れ出す様に伝えました。
「鄭芝龍殿。貴方達の軍隊が我々にどれだけ立ち向かえるのか、これから試してみましょう。」
安海、廃墟と化す
ポロは、手始めに鄭芝龍につき従っていた者たちを全員殺しました。そして、麾下の満洲騎馬軍を安海に急行させました。
安海にいた鄭家軍は、福州で起こった異変に気がつきましたが、満州騎馬軍の速攻に陸上で対抗する手段はありませんでした。ただただ、船を岸から放し海に逃げるのみでした。
この日、鄭家軍の本拠地安海は、過去20年に渡る繁栄を一挙に失い、廃墟と化しました。鄭家軍の幹部たちは皆、船に乗り海に脱出しましたが、安海の街に取り残された人々もいました。その中に、鄭成功の母マツもいました。彼女が満州兵に蹂躙され無惨に殺されたことは、鄭成功に満州政権に対する揺らぐことのない敵愾心を植え付けることになってしまいました。
ポロは満州騎兵の力をもって奇襲をかければ、安海の鄭家軍を一網打尽に打ち取ることができると考えていたのでしょう。しかし、この戦闘はその目的を達成できませんでした。鄭家軍の主要な戦力は船であり、これは満州騎兵の急進にも関わらず、大部分が海に逃げてしまったのです。
安海の鄭家軍本拠地は壊滅してしまいました。しかし、鄭家軍は船団を保持し、新たに根拠地を廈門島に求めます。中国側の廈門とは目と鼻の先の廈門島ですが、船を持たない満州軍はこの地を攻めることができませんでした。
後に鄭家軍が台湾に根拠地を求めるのも、同じ理由です。清朝の軍隊の手の届かないところに船で逃げる。その様にして命脈を保つという歴史が繰り返されています。
ポロの失策
ポロは、短期的にみると鄭芝龍を捕らえ、安海の鄭家軍の根拠地を破壊するという結果を出すことができました。これをもって、北京のドルゴンに対し、満州騎馬軍団の成果であると報告できたでしょう。
しかし、そのために失った戦略的、政治的損失はとてつもなく大きかった。
このまま鄭芝龍を清朝の元に招くことができれば、南明政権は数年をおかず瓦解したことでしょう。鄭家軍はそのまま清朝の海軍となったはずです。海で有効に戦う術を持っていなかった清朝の軍隊にとって、この鄭家軍の海軍戦力の有無というのは、天と地ほどの差があります。後に康熙帝の指導のもと、施琅が台湾の東寧政権を滅ぼすのは、実に1683年のこと、36年も後です。清朝が自ら海軍を編成し訓練し、鄭家軍に勝利するには、それだけの時間を要したということです。
更に大きな失敗は、この安海の戦いで日本から連れてきた実母を殺された鄭成功が、清朝を不倶戴天の敵とみなす様になったことです。鄭成功は、これ以降、父を騙し討ちにし、母を残虐に殺した清朝を、許す余地のない仇と看做すようになります。
このことは、この時点で清朝に対する抵抗勢力が、各地に散発的に存在していた状況を、次第に変えていきます。"反清復明"という旗頭を立てる、揺るぎなき運動の核ができたのです。そして、その核は満州騎馬軍の手の届かないところに移ってしまいました。
洪承疇の対応
この時期、洪承疇が行っていたのは、江南から中国南西部の広域に渡る招撫策です。彼は、南京に本拠を置き、各地の反清勢力に対し目を光らせていました。後に永暦帝の現れる広東地方、張獻忠の残党が勢力を持っている四川地方などに目を配って、反乱運動が起こればそこに軍隊を派遣して収める、まだ清朝の元に降っていない地方には、説得工作を図る。その様な、中国の西南半分全域を対象にした工作活動です。
この時期、本拠の南京でさえ何度か反乱に見舞われています。洪承疇はその都度、状況に対応しながら各地の将領に指示を出しています。
福建は、その多くのターゲットの内の一つに過ぎませんでした。それも、それらの中で最も御し易い相手だったと考えられます。南明の隆武帝政権は、洪承疇にとっては優先的に処理すべき問題ではなかったでしょう。それどころか、主観的には既に解決済みの地域だったはずです。
彼にとって最も土地勘のある場所に、相手に対する根回しも充分に済んでいる。ポロ将軍は問題のある人物かもしれないが、あそこに送るのなら大丈夫だろう。鄭芝龍がこちらに寝返るのであれば、何の問題もない。福建の成果はポロ様のものとして差し上げよう。この様な算段で、福建の事態を想定していたのでしょう。
しかし、福建から届いた知らせは、鄭芝龍を囚人として北京に送るというものでした。そして、安海が戦場となり灰燼に帰した、ポロの軍団は敵の首級を何百と挙げたということです。洪承疇はこの知らせに愕然としました。
「ポロ様は、何ということをしてくれたのだ。私が準備した福建の招撫策が崩れてしまった。鄭家の海軍を敵に回すことは、今の清朝の力では手に負えないぞ。」
しかし、覆水盆に返らずです。満州貴族の失策をあげつらうことは、漢族の官僚にはできません。ポロは、清朝トップのドルゴンとドドに非常に近いところにいる満州貴族です。
洪承疇はすぐに前後策を考えました。鄭芝龍を北京に送ったのは、戦闘の戦果を示す囚人としての扱いでした。しかし、この人物の重要性をドルゴンに知らせ、北京では鄭芝龍を丁重に扱う様、要請しました。
ドルゴンは、この洪承疇の意図を汲み取り、北京では鄭芝龍に名目上清朝での役職を与え、それなりの屋敷に住まわせます。
更に、鄭芝龍を順治帝に引き合わせ、遺憾の意を伝えます。「今回のことは誠に申し訳なく思っている。清朝としては、鄭家軍には本当に我々の仲間に加わってもらいたいと考えている。そのための説得に当たるので協力してもらいたい」と申し出ました。
鄭芝龍は、ポロの裏切りを許すことはできないと考えていましたが、このことが清朝の指導者の意図ではないことは理解しました。「分かりました。できるだけの協力はしましょう」と伝えました。
この席には、若き順治帝もいました。今後10数年間に渡り、鄭芝龍は北京と寧古塔で軟禁生活を送りますが、順治帝の生きている間は殺されることはありませんでした。しかし、康熙帝の時代になった途端に、鄭芝龍は殺されることになります。順治帝は、自らには責任のないことながら、何らかの自責の念があったのかもしれません。
ここに書いたことは、僕の妄想です。
しかし、この事態はドルゴンが欲したわけでもなく、洪承疇が望んだわけでもない。これは、征南大将軍であるポロが自らの軍事的成果をアピールするために、独断で行った大きな失策だったのではないか。その様に考えると、様々な歴史的風景が一つののストーリーとして見えてくる。その様に考えています。