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【明清交代人物録】洪承疇(その二十七)
前回述べたような隆武王朝に対するに、清朝側ではどのような動きになっていたのでしょうか。
僕が鄭芝龍に清朝側のアプローチがどのように行われていたのかを知りたいと考えた際に、洪承疇と合わせて知りたいと考えていた人物がいます。それは、この時期の清朝征南軍のトップであるポロです。この満州貴族の動向が、鄭芝龍が囚われの身となる際のキーになるのではないかとずっと考えていたのですが、一向にこの人物の素性や性行が分かりませんでした。最近になってようやく、このようなことなのではないかという、仮説の様なものが浮かんできたので、その線に沿って説明します。
清朝の征南軍
ドルゴンは、元々の征南軍のトップであったドドを北京に戻し、代わりに満州貴族エチェン、満州族の将軍ルクトフン、漢人の将領洪承疇のトリオを派遣、招撫策を基本として明朝の残存勢力を支配下に置く様、指示をしました。
このフォーメーションは、征南軍の実質のリーダーは招撫策を実施する洪承疇とし、軍事的な行動に出る場合には満州族の2人が出動するということであったのだと考えられます。満州族の軍人である2人は、江南の地では満州八旗軍を統べて戦闘に訴えるしか、その存在意義を示す方法はなかったでしょう。
この様な江南における清軍の陣容をみると、江南地方の事態にドルゴンはあまり口を出さずに洪承疇に任せていた。洪承疇は漢族の人間関係を通して招撫策を実施しており、満州族のリーダー2人は軍事的に活躍する場を求めて、その様な事態が起こるのを心待ちにしていた。その様な構図があったのだろうと考えています。
ポロ
当初の征南軍のトップはエチェンとルクトフンでした。これが一年後に交代し、新たに派遣されたのがポロとグサエジェンのトゥライです。この交代は、西方における順軍の残党に対応するための配置転換の様です。ドルゴンにとって、早急に対応すべきは戦闘力の高い順軍で、江南の脅威はそれほどではないと考えていたのでしょう。
このポロという人物は、ヌルハチからは直系の孫に当たります。父親はホンタイジの弟で、ヌルハチの七男に当たるアバタイです。七男ということは十四男になるドルゴンにとっては歳の離れた兄になるので、ポロにとってのドルゴンは、年の近いおじさんといったところでしょう。ポロは1613年生まれ、ドルゴンは1612年生まれですので、一歳違いでしかありません。ドルゴンの弟ドドは、ポロの一歳下、1614年の生まれです。
1648年の時点でポロは35歳。既に戦場の経験も豊富に持っており、満州軍団の中では中核の位置にあったでしょう。
《清史稿》の列伝にポロの項があり、この人物の事績を紹介しているので、訳出してみます。
博洛,阿巴泰第三子。天聰九年,從伐明,有功。崇德元年,封貝子。二年,與議政。三年,授理藩院承政。從攻寧遠,趨中後所。明將祖大壽襲我軍後,巴牙喇纛章京哈寧阿等與相持,博洛突前奮擊,大壽引卻。五年,從濟爾哈朗迎來歸蒙古蘇班岱,擊敗明兵,賜良馬。尋與諸王更番圍錦州。六年,洪承疇以十三萬人援錦州,博洛偕阿濟格擊之,至塔山,獲筆架山積粟;又偕羅洛渾等設伏阿爾齋堡,擊敗明將王朴、吳三桂。
順治元年,從入關,破李自成,進貝勒。從多鐸征河南。
二年,破自成潼關。多鐸南征,下江寧,分師之半授博洛,下常州、蘇州,趨杭州,屢敗明兵。師臨錢塘江岸,明兵以為江潮方盛,營且沒,會潮連日不至,明潞王常淓以杭州降,淮王常清亦自紹興降。克嘉興,徇吳江,破明將吳易,攻江陰亦下。師還,賜金二百、銀萬五千、鞍馬一。
三年,命為征南大將軍,率師駐杭州。明魯王以海監國紹興,明將方國安營錢塘江東,亘二百里。師無舟,會江沙暴漲,固山額真圖賴等督兵徑涉,國安驚遁,以海走台州。師入紹興,進克金華,擊殺明蜀王盛濃等,再進克衢州,浙江平。明唐王聿鍵據福建,博洛率師破仙霞關,克浦城、建寧、延平。聿鍵走汀州,遣阿濟格、尼堪、努山等率師從之,克汀州,擒聿鍵及曲陽王盛渡等。明將姜正希以二萬人夜來襲,擊之卻,斬萬餘級。又破敵分水關,克崇安。梅勒額真卓布泰等克福州,斬所置巡撫楊廷清等,降其將鄭芝龍等二百九十餘人、馬步兵十一萬有奇。師復進,下興化、漳州、泉州諸府。十一月,遣昂邦章京佟養甲徇廣東,克潮州、惠州、廣州,擊殺明唐王聿及諸王世子十餘人,承制以養甲為兩廣總督。
四年,師還,進封端重郡王。五年,以所獲金幣、人口賚焉。偕阿濟格防喀爾喀,徇大同,討叛將姜瓖。
六年正月,偕碩塞援代州,克其郛。三月,瓖將馬得勝以五千自北山逼我師,博洛率千餘騎應之,與巴牙喇纛章京鰲拜等奮擊,大破之,斬馘過半,瓖閉城不敢出。睿親王多爾袞自京師至軍議撫,承制進親王,命為定西大將軍。移師汾州,下清源、交城、文水、徐溝、祁諸縣,戰平陽、絳州;又遣軍克孝義,戰壽陽、平遙、遼州、榆次:屢捷。英親王阿濟格、敬謹親王尼堪圍大同,巽親王滿達海、謙郡王瓦克達定朔州、寧武。召博洛還京師,疏言:“太原、平陽、汾州所屬諸縣雖漸次收復,然未下者尚多,恐撤軍後,賊乘虛襲踞,請仍留守御。”上從之。瓖既誅,與滿達海合軍克汾州,復嵐、永寧二縣,戰絳州孟城驛、老君廟諸地,盡殲瓖餘黨,乃還師。七年,偕滿達海、尼堪同理六部事。再坐事,降郡王。世祖親政,復爵。尋命掌戶部。九年三月,薨,謚曰定。
「ポロ、アバタイの三男である。天聰9年、明との戦いにおいて功をあげる。崇德元年、ベイシに封じられる。
崇德2年、議政となる。
崇德3年、藩院の職を受け政治に携わる。寧遠の戦いでは後方支援を行う。明の将軍祖大壽が清軍を襲った際、統領ハネイアと協力して戦う。ポロは前線で奮戦し、祖大壽を撃退する。
崇德5年、ジルガランがモンゴルのソバンタイを迎えに出る際、明軍を撃破。良馬を賜る。諸王と協力し錦州を包囲する。
崇德6年、洪承疇が13万の兵により錦州を救援に来た際、ポロはアジゲと共にこれを攻撃、塔山まで攻め、筆架山の明の糧食を奪う。また、ラロクフンと共にアルサイ砦に伏兵を置き、明の将軍王朴と吳三桂を破る。
順治元年、山海關から北京に入城、李自成軍を破り、ベイレとなる。ドドに従い征南軍に加わる。
順治2年、成潼の関を破り、ドドに従い江寧に向かう。この際、ドドから軍の半分の指揮権を受け、常州、蘇州に向かい、杭州では明兵を打ち破る。軍が錢塘江の河岸に達した際、明軍は河の水量が豊富なので、清軍は河を越えられないだろうと考えていたが、水位が上がらず攻められ、明の潞王常淓は杭州において降った。淮王の常清も紹興において降った。そして、嘉興を落とし、吳江を敗り、明將吳易を降した。江陰も攻め落とし、凱旋した。帰還した軍は、金二百、銀一萬五千、軍馬一頭を賜る。
順治3年、征南大将軍に任じられ、軍を率い杭州に進軍。明の魯王以海が監国として紹興におり、明将方國安が錢塘江の東に陣取り、防御線は200里に渡っていた。清軍に船はなかったが、河砂が河底を上げており、グサ・エジェンのトゥライは兵に強引にこれを渡河させた。國安はこれに驚き陣を引いてしまい、以海は台州に逃げた。清軍は紹興に入り、進軍して金華を落とした。ここで、明の蜀王盛濃らを殺害し、更に進んで衢州を落とし、浙江省を平定した。明の唐王聿鍵は福建を根拠地としていたが、ポロは軍を率い仙霞關を破り、浦城、建寧、延平を落とした。聿鍵は汀州から逃げ出したので、アジゲ、ニカン、ヌシャンを派遣しこれを追わせ、汀州を落とし聿鍵や曲陽王の盛らを捕らえた。明将姜正希が2万の兵をもって夜襲をかけてきたが、これを撃退し1万あまりの首級をあげた。また、分水關において敵を破り崇安を落とした。メイルーエチェンのチョブタイらは福州を落とし、この都市の巡撫楊廷清らを斬首し、鄭芝龍ら290人余り、騎兵歩兵11万余りを降した。さらに軍を進め、興華、漳州、泉州の各都市を降した。11月、邦章京佟養甲を広東に派遣、潮州、惠州、廣州を落とし唐王聿鍵と諸王とその子らを殺害した。その後、佟養甲を兩廣總督に任じた。
順治4年、軍を北方に戻し、端重軍王に封じられる。
順治5年、受け取った金幣を使い人馬を養う。アジゲ、グルカと共に大同を攻め、反乱を起こした姜瓖を討伐する。
順治6年、ソサイと共に代州の救援に向かい、其郛を落とす。3月反乱軍の馬得勝が5千の兵により清軍に迫るが、ポロは千の騎兵によりこれに応じ、アオパイらの奮闘によりこれを大いに破る。敵軍の半数の首を取り、瓖の軍は城門を閉じ出撃できなかった。睿親王ドルゴンは北京からこの軍に赴き、ポロを親王に封じ、定西大将軍に任じた。ポロは命に従い、軍を汾州に進め、清源、交城、文水、徐溝、祁諸縣,戰平陽、絳州を落とした。また、軍を派遣し孝義を攻め、壽陽、平遙、遼州、榆次を転戦し、いずれも勝利した。英親王アジゲは、敬謹親王ニカンと共に大同を包囲、巽親王マンダハイは謙郡王ワグダと朔州、寧武を戦力した。そして、ポロを北京に戻しこの様に告げた。「既に太原、平陽、汾州を降したが、まだ我らに従わぬ者も多い。ここで軍を引くとその虚に騒ぎ出すものもいるだろう。貴殿はここに留まりこの地を守るように。」ポロはこの命に従った。シャンキシュはマンダハイと共同して汾州を落とし、嵐と永寧のニ縣を奪回した。そして、絳州孟城驛、老君廟の地で戦い、瓖の残党を殲滅し北京に戻った。
順治7年、マンダハイ、ニカンと共に六部事に任ぜられる。しかし、失策により郡王に格下げとなる。世祖の親政になった際、爵位をあらためて授かる。掌戸部の職に就く。
順治9年3月、歿す。諡は定とされた。」
ポロの活躍した時代は、ドルゴンのそれとほぼ重なっています。年は一歳しか違わず、順治帝の親政が始まってまもなく没しているので、亡くなった年も同じくらいです。
全体の印象では、ポロはドドの補佐となったり、ドルゴンの直接の指示があったりと、全軍の指揮を任されている様子ではありません。年齢のことを考えると、ポロはドドよりも年上なので、弟分の指揮下に入っていることになります。
この記事では、鄭芝龍のことについては一言しか触れられていないので、経過の詳細は分かりません。しかし、気になった点がいくつかあります。
一つは、ドルゴンがわざわざ北京から征南軍のいる江南に乗り込み、何らかの処置をして戻っていること。晩年に何らかのミスをして爵位を剥奪されていることです。
このポロという人物は、清朝初期のドルゴンの時代に、ドルゴンと同じ世代で武人として働いているのですが、何か大きな失敗をしているのではないか。それも一度ならず、何度も。その片鱗がこの「清史稿」の記録に残っているのではないか。
そして、その一つが、鄭芝龍に対する対応だったのではないかというのが、僕の考えていることです。