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【明清交代人物録】鄭芝龍(その十ニ)

鄭芝龍が北京に送られてから、最後に処刑されてしまうまでの様子を紹介してエピローグとします。
基本的に順治帝の時代は軟禁という状態であったのが、康熙帝に代わった途端に処刑されてしまうという経過をたどります。


北京での軟禁

ポロは鄭芝龍に対し、皇帝が直々にお召しになるから北京に行くようにと勧めます。鄭芝龍はこの指示に素直に従ってしまいます。しかし、この直後彼は部下から切り離されて檻の中に閉じ込められ、そしてその屈辱的な状態で北京まで護送されます。
鄭成功と鄭鴻逵はこうなることを警戒して鄭芝龍に翻意を促したと記されていますが、もし鄭家軍が一枚岩で、すぐに清軍に恭順の意を示せば、このような事態にはならなかったかもしれません。
そして、この後に鄭芝龍の本拠地安海が焼き払われて、田川マツが殺されてしまいます。安海の繁栄も灰燼と化してしまいます。

この後、鄭芝龍は北京に軟禁され、福建の事態を収集するためのコマとして、清朝に利用され続けます。福建の家族からは末の弟鄭芝豹と、のちに康熙帝の元、台湾を攻め落とす施琅の父親施福などが、鄭芝龍の元に付き従っていますが、多くは福建に残り対清朝の闘争を続けることになります。

僕は、この時鄭芝豹が鄭芝龍に付き従っているところに、大きな示唆を感じています。鄭芝豹というのは鄭芝龍の腹違いの弟で、母親は黄氏です。鄭家の後ろ盾であった黄氏は、鄭芝龍に清への帰順を勧めた黄熙胤もそうですし、常に清朝に従おうという動きをしています。
鄭家軍の有力なパートナーであった黄家は、この時点で舵を清朝の方に振っていたのでしょう。ただし、鄭芝龍の継母である黄氏は、この時点では、鄭家軍の総元締めとして反清復明の旗を立てる鄭成功の元にいます。この孫の行く末に一筋の光明を感じていたのかもしれません。

清朝の対漢人政権運営の変遷

順治帝の7年目に、摂政であったドルゴンが亡くなり、順治帝が直接政治を運営する時代になります。この時代は、全体を通じて鄭家軍に対して交渉を通して帰順を図る政策が続きます。これは、順治帝の性格なのか、この時代の集団指導体制のなせる業なのかその辺は詳しくわかりません。

僕は清朝初期の政治の方向性として、各々の指導者で、漢族に対する態度が硬軟順番に入れ替わっているのではないかと感じています。

ヌルハチによる清朝の勃興期には、優れた武人である指導者による政策が主で、漢人を政権に取り込むことにはそれほど積極的ではなかったようです。
これがホンタイジの時代になると、だいぶ様子が異なります。東北の僻地から中原に乗り出すためには、漢人の知恵を使い、漢人を宥和していかなくてはならないという方針に変わっています。そのために前出の洪承疇とか范文程という将軍、軍師クラスの漢民族の人材を利用しながら、明朝の組織の取り崩しを図っていきます。

実際に北京に入場して清朝を中国の王朝としたのはドルゴンです。彼の政権の初期はホンタイジの方針を継いでいるようですが、その後弁髪令を発するなど、満州民族の習俗を漢民族に押しつける様になっていきます。
次の順治帝は、非常に幼くして北京の主となったので、どれほどから個人の個性が表れているのかは分かりませんが、現象としては戦争を好まない、交渉によって物事を収めようという姿勢が強い様に思われます。
そして、康熙帝の時代はご存知の通り、三藩の乱、台湾の併合と非常にアグレッシブな動きを示す様になります。

鄭成功の北伐

順治帝の元、鄭家軍と清朝の間で帰順の条件のための交渉が続けられましたが、鄭成功にとってはこれは元々清朝の元に降る意図はなく、単なる時間稼ぎだった様です。
そして、海軍力に劣った清朝の弱みを攻めて、海路南京を目指すという戦略に出ます。この戦いは、南京に迫るところまでは比較的順調に進みますが、ここでつまづいてしまいます。部下たちが早く攻撃をするべきだと進言したにも関わらず、鄭成功はここで南京の内応を待つという判断をしてしまいます。そのために勝機を逸してしまい、清朝の援軍により大敗北を喫します。

この間、北京の鄭芝龍に対して清朝からは彼を利用して、鄭家軍を帰順させようという働きかけが繰り返されますが、結果としてこの試みは何ら成果を出すことはできませんでした。そしてそのため鄭芝龍の立場は段々と苦しくなっていきます。

順治帝は部下たちに鄭芝龍とその家族をどうすべきか諮問し、その結果死罪とすべきと結論が出されてしまいます。しかし、順治帝はこれに対し、死罪を免ずると命じ、鄭芝龍は東北の辺境の地寧古塔に送られてしまいます。

そして、鄭芝龍の家族がこのような状況になっている中、鄭成功の南京攻撃が起こるわけです。清朝としては、鄭芝龍をこのような辺境に置いておいたのではかえって監視の目が行き届かないのではないかという意見が起こり、あらためて北京に呼び戻されます。

康熙帝の時代

1661年正月、順治帝が崩御し、幼い康熙帝がその後を継ぎます。鄭芝龍は、虜囚となってから何度となく死地から救ってくれていた後ろ盾を失ってしまいます。
この同じ年の3月、鄭成功は厦門の根拠地を引き払い台湾に攻め込みます。
8月、鄭芝龍は息子の鄭成功と連絡を図っていたという罪で訴えられます。
10月、鄭成功は台湾のゼーランディア城を包囲し、台湾での拠点を確保します。
そしてその直後、鄭芝龍は家族11人と共に処刑されてしまいます。

黄家が清に下る

鄭成功はその主力軍を台湾に送ります。厦門に残っていたのは、息子の鄭経と若干の留守部隊です。鄭成功は台湾に渡った直後、その地で病気になり亡くなってしまいます。鄭経はすぐにその後を継ぐべく台湾に渡り、鄭家軍の統制を図ります。

しかし、この鄭経に黄家の祖母は従わなかったと記録が残っています。鄭家と黄家のパートナーシップもこの段階で終了してしまいました。

この後、福建による権力闘争は台湾の明鄭勢力を取り除くための闘争をめぐって繰り広げられることになります。


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