【明清交代人物録】洪承疇(その十六)
呉三桂は、急変した自分の立場が、究極の選択を迫られていることを十分に把握することができず、清軍と順軍との間に置かれ、軍事的な圧迫を受け続けます。自らが生き残るためにはいずれかの配下に着くという意思を明確にしないといけません。第三者として中立の立場に身を置くことは既に不可能になっています。呉三桂がその決断をするには、李自成の軍隊との戦闘が始まることが必要でした。
この山海關の戦いのことは、中国語では"一片石之戦"と呼ばれています。"一片石"は山海關北東部の地名です。
山海關包囲戦
北京からは、山海關を攻めるため6万の大軍が集められ、李自成自らがこれを率いて進軍を始めます。皇帝自ら親征すべき事態という自覚はあったのでしょう。
この時、李自成は呉三桂の守る山海關はすぐに降参するであろうと楽観視していました。順軍は明朝の皇太子朱慈烺と、呉三桂の父親吳襄を引き連れています。さらに、配下には多くの明の軍勢もいます。この様な陣容で呉三桂に迫れば、彼は簡単に自らの元に降るだろうというのが、李自成の算段でした。恐らく、彼の頭の中に満州族の清王朝のことはなかったのでしょう。仮にあったとしても、十分な情報ではなく、少数民族による小さな集団で、取るに足らない勢力とでも考えていたのでしょう。
李自成が北京を離れたのが4月13日。副将に劉宗敏を従え山海關を目指し、別動隊として明の降将唐通を長城の外側にある一片石に向かわせます。
山海關は長城の外側の異民族に対して中原を守るための城です。この城に対して、長城の内側から攻撃を受けるというのは、それだけで致命的なことになります。李自成はそれに加えて、長城の外側にも軍を派遣し山海關を包囲する戦略を立てたわけです。4月18日、李自成の戦闘配置は終わり、攻撃が始まりました。
呉三桂の軍は、孤立無援の状態で三方を順軍に抑えられ、籠城戦を余儀なくされます。この城は長期戦を想定した糧食の準備はあったでしょうが、明王朝が崩壊した状態でこのまま戦い続けることは不可能です。李自成の要請を断った時点で清朝側に着くことを決断していましたが、清朝側からは快い返事はもらえないままでした。
清朝の動き
一方、清朝側もこの事態を注視していました。ホンタイジの時代から20年がかりで攻略しようと努力しながら落とせないでいた山海關の状況が、過去と全く違ったものになっていたのです。そればかりか、明の守将呉三桂から、清軍の援助を求める親書が届いています。
ドルゴンは、ことの真偽はともかく軍を動かすことにしました。北京を落とした農民軍が山海關を手中に収めることになると、事は重大です。清の軍隊が瀋陽城を出たのは4月9日、そして20日には山海關の北にある連山に到達しました。
この軍には、参謀として范文程と洪承疇も加わっていました。この山海關付近の戦場について、清軍の中に洪承疇ほど詳しい人物はいなかったでしょう。更に、彼はかつて呉三桂の上官でもありました。呉三桂の意図を確かめて判断するにも、これ以上の適任者はいません。
しかし、清の軍隊はここですぐに呉三桂に援軍を送りはしませんでした。呉三桂は過去ずっと清に降る意思を見せていなかったので、彼の真意がどこにあるのか、清朝側では掴みきれていなかったのです。
呉三桂、清朝に降る
この時まで呉三桂は数度にわたり清軍に援助を求めていました。しかし、一向に援軍は現れません。順軍による攻撃に対して山海關の明軍は何とか持ち堪えてきましたが、4月22日、このままでは順軍の猛攻に耐えられないと、呉三桂はいったん城を離れ自ら清軍の元に向かいました。援軍を出す様、あらためて要請するためです。
清の幕下には洪承疇がおり、彼が呉三桂をドルゴンに会わせるよう斡旋をしました。ドルゴンは、呉三桂を前にしてこの様に言ったそうです。
「貴方方は、かつての主の為に闘っている。その義挙は賞賛に値する。私は、我が軍を率いてその夢を叶えてしんぜよう。前帝のことは、言葉にするに忍びない。誠に残念なことである。我々は、かつては敵同士であったが、今は一つの家族である。我が軍が関内に入った際には、一束の草も一粒の麦も奪うことはしない。もしその様なことがあれば、厳罰を以て処する。貴方はこのことを、中原の人民に告知せよ。何も我々を恐れることはないと。」
「そして、軍に戻り貴方の軍隊に肩に白布をかける様、指示しなさい。さもないと我々は同じ漢人同士見分けがつかない。間違って殺してしまう恐れがある。」
そして、ドルゴンは呉三桂に清の元に降ることを約束させました。
清の指導者ドルゴンのこの言動には、漢人のブレーンの意図が色濃く反映されていると僕は思っています。ドルゴンを始めとする満州族のリーダー達は、范文程と洪承疇による提言と政策を、そのまま受け入れて実施したのでしょう。翻って言えば、この時ドルゴンは操り人形の様に、范文程と洪承疇の言われるがままに振る舞っていたのではないでしょうか。
この年は順治元年、ホンタイジが亡くなった翌年、ドルゴンは摂政として清朝のトップに立ってはいましたが、この激変した環境でどの様に判断し振る舞ったら良いかは、自ら考えることは難しかった様に思います。
そして、この段階では、ドルゴンは漢人ブレーンの建言を、そのまま受け入れている可能性が高いと僕は考えています。順軍打倒と北京奪回の作戦の青写真は、范文程と洪承疇の脳裏に描かれたものでしょう。
順軍崩壊す
4月23日、ドルゴンは呉三桂を山海關に戻し、彼に続いて清の軍隊を城の中に入れさせました。そして、順軍に対し、呉三桂を先鋒に置き、英王アジゲと䂊王ドドを左右両翼に配し、自らは中央に陣取りました。そして呉三桂を李自成軍に突入させました。
初めの段階では、清軍は呉三桂を援助せず、単独で戦わせました。李自成は突出した呉三桂の明軍を三方から挟撃しました。この日は、砂嵐が吹き荒んでおり、順軍から山海關の戦場の様子はハッキリとは分からなかったそうです。そして、呉三桂の軍が囮になる様な形で、順軍を山海關の陣地に引き込みます。そして、順軍が最後の力を振り絞り攻め込む、正にそのタイミングで、アジゲとドドの左右両翼の軍が順軍に襲いかかりました。
順軍は、この事態に自らを失ってしまいました。今まさに勝利をおさめられる、そう考えていた時に、満州の精鋭の騎馬兵軍団に攻め込まれてしまったのです。そして、順軍は一気に総崩れになってしまいました。
李自成はこの逆転された戦況を見て、かつての農民反乱軍の時代の反応でしょう、この戦場を真っ先に離れてしまいました。そして、この敗走は北京を超えて、遠く根拠地の陝西まで続くことになります。
この李自成軍の崩壊は、まるで膨らんだ風船が破裂した様な印象です。この中国東北の戦場で、明軍にしろ清軍にしろ、一日の負けで全軍が崩壊することにはなっていません。粘り腰というか、ある程度持ち堪える力量が両軍にあります。それと比べると、この順軍の崩壊するスピードはあまりに速い。
これは、ゲリラ戦を旨とした農民軍の戦い方だったのでしょう。弱いものにあたれば叩きのめすが、強い相手にぶつかった場合は逃げる。彼らの明軍との戦い方は常にそうでした。最終的には明軍が自己崩壊する様な形で、北京落城まで事態が進みましたが、清軍と順軍が正面でぶつかった場合に、農民軍のゲリラ上がりであった彼らには勝ち目はなかった様に思われます。
彼らは、ファーストコンタクトで清軍に敗北し、そのまま滅亡してしまったのです。