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夷を以て夷を制す
前回の"中華民国とアメリカ"の投稿を書く資料を調べた際に、日清戦争の後、清国はロシアの侵入を防ぐために、日本とアメリカの勢力を利用したという記事を見つけました。この時点では、日本とアメリカは共同歩調をとっているのです。その後、ロシアは満州の地から駆逐され、今度は逆にそこに日本が進駐してくることになった。
この経過を知り、"夷を以て夷を制す"という言葉が浮かんできました。これは、中国の古典にある故事成語です。しかし、近代の中国は国家政策としてこれを実施していたのではないか。そして、その後の中国史はこのパターンが繰り返されているのではないかと、ふと思いました。
夷を以て夷を制す
"夷を以て夷を制す"、この言葉は、後漢書からの故事成語なのだそうです。中国語で書くと"以夷制夷"。その故事のことを調べてみました。
これは、東漢の章帝の時のことです。
羌人の反乱に対し、護羌校尉の張紆は投降してきた迷吾らを殺してしまいました。これに対し羌人はとても怒り、報復してきます。漢の朝廷は張紆の代わりに鄧訓を護羌校尉として派遣し、乱を収めようと考えました。
これより先、小月氏の胡人が砦の中におり、戦闘に立てる2,3千の騎兵は皆勇猛果敢で、羌人との戦いに際し、少数で大勢の敵を破っていました。この時、迷吾の息子迷唐は、砦までやってきましたが、鄧訓と戦うのに怖気づき、先に月氏胡人を襲おうとしました。鄧訓の部下達は、羌人が大軍をもって月氏の胡人を攻めようとしているのを見て、羌人と胡人が互いに戦っている状態は漢朝にとって有利だと考えました。夷人が夷人を攻めている。彼らが互いに戦うのを止めるべきでないというわけです。
しかし、鄧訓は次の様に話しました。
「そうではない。いま、張紆の行動が信用を失い、羌人の各部族が大挙して反乱を起こしている。今は、胡人各部落が不満に思っている原因をしっかりと把握しなくてはいけない。今は、我々の彼らに対する関心と信頼が足りないのだと思う。彼らの信頼を得たいならば、彼らに対してしっかりとした対応をしないといけない。いま、月氏胡人が危地に立っているなら、彼らをそこから救い出さなければならない。彼ら全員を助けて、恩義をもって彼らに対処する。その様にしてこそ、いざという時に彼らを頼ることが出来る。」
そして、鄧訓は城門と自らの居所の門を開き、全ての胡人の妻と子供達を城の中に入れ、兵を使って保護しました。羌人は胡人を誘拐しようとしたが失敗し、また胡人の各部落に近づくのも危険と判断し、結局は兵を引きました。この時以降、湟中の胡人たちはこの様に考えるようになりました。
「漢朝は、これまで常に我々を互いに争うように仕向けてきた。しかし、今の鄧将軍は、恩義と信用をもって我らに対してくれている。城門を開き我々の妻と子供達を保護してくれた。このようにしてくれたおかげで、我々は家族でまた集まることができた。」
みなは、喜んでうなづいた。
「われわれは、鄧将軍の命令に従おう。」
そして、鄧訓は数百人の勇敢な若者を受け入れ、彼らを従僕として使い、漢軍の中に取り込みました。そして、共に迷唐を攻める軍隊として戦いました。
今回の反乱は速やかに終息した。この後、鄧訓は辺境の各部族に対し友好的で平和な態度で接しました。そして、彼が辺境の管理を行なった10数年間、辺境において2度と反乱が起こることはありませんでした。
この故事を正確に読むと、"夷を以て夷を制す"ことは良くないと書いてあるわけですね。少数民族に対しても、信用と恩義をもって対応すべきだと説いているわけです。これは一つの発見でした。
日清戦争では、清朝は自ら日本と戦った
日清戦争の戦場は朝鮮半島でした、李氏朝鮮は清朝の藩属国を自認し、清朝派の政治家が多かった。一方、明治維新後の日本の膨張圧力が激しかったため、朝鮮内部に日本派の政治家も現れました。この2者の政治的駆引きが、朝鮮の国内の争いにとどまらず、清朝軍と日本軍を朝鮮の国土の中に引き込んだ争いに発展していきます。
この様にして、戦闘は朝鮮半島で勃発し、のちに中国の遼東半島、黄海に拡がっていきます。
戦争の詳細をここでは説明しませんが、この日清戦争の段階では、清朝は自らの軍隊を以て日本軍と戦っていると考えられます。"夷を以て夷を制す"ではありませんでした。清朝にとって、東の小国でしかなかった日本。この日本に対して、清朝は自らの軍備で戦って勝つことができると考えていたのでしょう。
しかし、現実はそうはならなかった。西洋の先進的な軍事技術を取り入れ、国民国家として近代化した日本軍に、封建的な清朝は歯が立ちませんでした。屈辱的な敗戦を喫し、賠償金、遼東半島と台湾の割譲という下関条約を結ばされます。
この戦争で、清朝は自らの軍事的実力を自覚せざるを得なかったということでしょう。
清朝は、日本を以てロシアを制した
日清戦争の敗戦を機に、ロシアの勢力が中国東北地方に進出してきます。この軍事的圧力に対し日本も反応し、ロシアの南下を抑えるために日露戦争を準備するわけですが、この時の事態は、清朝側にとっては既にロシアに大規模に国境侵犯を受けていると考えられます。
清朝にとっては、欧米列強の侵略を自力で跳ねのける軍事力は既にないという自覚があったのでしょう。清朝政府内部にも親英派と親露派があり、主導権を争っていましたが、結局のところ、直接国境線を接しているロシアからの侵犯を危険と判断し、英国と結び、ロシアに対抗するという外交方針になります。そして、この大戦略の元、日本がイギリスのバックアップを受けて戦争の矢面に立ち、ロシアと戦うことになります。
日本から見ると、この日露戦争の動機は、ロシアからの南下の圧力に対応するためと一般的に言われています。しかし、清朝側から見ると、ロシアの南下の勢いを食い止めるためにイギリスと結び、イギリスと同盟を結んだ日本が、戦場の矢面に立った。その様に見えます。何しろ、日露戦争の戦場は徹頭徹尾、清朝の領土内なのです。
この様に考えると、この日露戦争の開戦の動機について、日本はイギリスと清朝に唆されたという面もあるのではないかと考えています。本来、日本の自らの領土が侵されているわけではない。帝国主義的な膨張主義が外交方針の主流であったとしても、最終的には自国の運命に関わることなので、他国の意向によって判断しなくても良かった様に思います。この時の外交的判断がどれだけ自主的なもので、どの程度イギリスと清国の意向であったのか、検証する必要があるように思います。
日露戦争の結果、ロシアの南下は抑えられ、黒龍江の北、モンゴルの地に押し戻されました。清朝は日本の軍事力を以てロシアを制したと言えます。
中華民国は、アメリカを以て日本を制した
日露戦争の終結が1905年、この後満州事変が起こり、満州国が建国される1931年まで26年あります。この期間、日本は朝鮮半島の植民地化を完了し、更に帝国主義的野望を膨らませていくことになります。目的は中国の東北地方、かつての日露戦争の戦場です。
この、日本の野望に対して、中国側はこの時期、辛亥革命により中華民国が清朝を打倒したとは言え、国内は統一した国民国家には程遠い状態でした。軍閥割拠の時代、広東を中心として南部は国民党の指導による中華民国が優勢でしたが、中部、北部にはそれぞれの地方の軍事指導者がそれぞれに勢力範囲を持っているという、国が分裂している状態でした。
そんな中、蒋介石の指導する国民党が北伐を開始し、地方の軍閥を傘下に収めていきます。この様な国内状況の中、日本軍による中国東北地方の占領が進むので、張作霖などの北方の軍閥はなす術もなく、日本軍の前に崩壊していきます。
蒋介石は、日本の陸軍で教育を受けた経験があり、近代化された日本軍と、前近代的な中国の軍隊では、基本的な軍事的能力に差があり、軍閥の軍隊でも国民党の軍隊でも歯が立たないことを熟知していたのでしょう。国民党の軍隊は日本軍との直接的な戦争をできるだけ避け、戦力を温存するという方針に終始します。そして、内陸へ内陸へと戦線を後退させ、日本軍の補給線が伸びきり、反撃のチャンスが来るのを待ちます。
1939年、ドイツによるポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦が勃発します。このとき、日本は国際連盟から脱退し、ドイツ、イタリアとの枢軸国同盟に加わりました。中華民国は、これを外交的チャンスと捉え、連合国に加わることを選択します。そして、これがその後中華民国が第二次世界大戦の戦勝国として席次を得るきっかけとなるわけです。
日本軍とは軍事的に対抗できない。その自覚の元に、国際環境を冷静に判断し、イギリスとアメリカを主体とする連合国に加わる。そして、戦勝国となり、日本軍を中国の国土から追い出すことに成功します。
第二次世界大戦時の中華民国に対する英米の援助は多岐に渡っています。インドからビルマを経由する援蒋ルート、米軍による空軍部隊の派遣など。直接的な援助はこの様な限定的なものですが、アメリカによる太平洋での対日戦争の全てが、中華民国を間接的に援助していると考えられるでしょう。
中華民国は、連合国に参加することにより、英米の軍事力により日本軍を制したと考えられます。
中華人民共和国は、ロシアの援助を得て中華民国を制した
第二次世界大戦で日本軍が撤退した中国国内の軍事的空白は、国民党軍がすぐに埋めます。しかし、その後すぐに中国共産党による国民党に対する反乱、国共内戦が始まります。
この中国共産党による戦争は、当初ゲリラ戦的に、国民党の正規軍との正面からの戦いは避けられ、補給線を断つとか、地理的に優位な場所で待伏せをかけるとかいう戦い方をしています。
そして、国民党軍の戦線が満州東北の地まで伸び切ったところで、中国共産党は反撃を始めます。そして、この時点から国民党の正規軍を正面から打ち破っていきます。
この内戦の過程には、まだよくわからないことがたくさんあります。一般的に言われるのは、国民党軍が経済政策や農民に対する対応を間違え、民意を失ったという言い方です。僕はしかし、この理由だけでは、中国共産党軍が東北の地で急激に反撃に出ることの充分な説明はできないと考えています。
ここで考えられるのは、中国共産党へのソビエト連邦からの軍事援助です。国民党軍は広東省を根拠地に勢力拡大を図っています。それに対して、中国共産党の本拠地は陝西省延安という北方の地です。ここから北京を経て中国東北地方まで、この地域のさらに北方はモンゴル共和国で、ソビエト連邦の影響下にあります。この国境線から、ソビエトからの軍事援助がなされ、その軍事力を背景に中国共産党の反撃が準備されたと考えられます。
このソビエトによる積極的な中国共産党援助に比べると、この時点でのアメリカによる国民党への援助は、非常に限定的です。アメリカは、1950年に朝鮮戦争が勃発するまでは、中国の内戦に積極的に関わろうとはしませんでした。アメリカが世界の共産化を恐れ、外交政策を変更するまで、台湾における蒋介石の国民党政府の生存は、風前の灯であったと考えられます。仮に、朝鮮戦争の前に中華人民共和国による台湾攻略が行われていたら、アメリカは援助の手を差し伸べなかった可能性が高い。
その前段としての、国共内戦時のアメリカによる軍事援助も限定的であったと考えるのが自然です。それに対して、ソビエトは世界に共産主義国家が増えることを積極的に支援していました。この軍事援助の違いの度合いが、国共内戦の戦況の行方を左右したのではないかと考えています。
自滅を促す戦争のやり方
この文章で考えたいのは、清朝は直接にイギリスと日本の軍事力を使って、ロシア軍を敗戦に追い込んだこと、中華民国がアメリカという友軍を得て日本を敗戦に追い込んだことは、いずれも"夷を以て夷を制す"という、中国の故事に表された考え方とよく似ているのではないかということです。自らの力だけで対応できない場合は、外交的手法を用いて、他の民族の力を借りてでも戦う。その様なしたたかな戦略的思考です。
しかし、これを実行した結果、清朝は滅び中華民国は内戦に敗北して台湾に追われてしまいます。
一方、中華人民共和国はソビエトの軍事的援助は得ているとは言え、ソビエト軍を直接中国国内に入れていません。"夷を以て夷を制す"には、ギリギリなっていない。このことは、国の存立を考えた場合にとても大切なことなのではないかという気がします。
これは、ベトナム戦争における北ベトナムも同じです。北ベトナムは中華人民共和国とソビエトによる援助を受けていますが、南ベトナムは直接アメリカの軍事力を国内に入れています。そして、南ベトナム政府は腐敗にまみれ、アメリカに見放されて敗北してしまいます。
この様な他人の褌で行う戦争は、どこかで自らを腐らさせてしまうものなのかもしれない。そんな印象を持ちました。中国共産党の様に、最終的には自らの脚で立つという矜持が、国民国家の存立には大切なのではないかと、そんなことを考えています。