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【明清交代人物録】洪承疇(その三十)

ここでは、洪承疇が南京をベースにどの様な仕事をしていたのかを概観してみます。印象としては、清朝は中国の巨大な国土を二分して、北半分はドルゴンが自ら治める、南半分を洪承疇に任せ、彼に治めさせる。その様に感じられます。
それほどまでに、ドルゴンは洪承疇のことを信頼していたのですね。

南京をどうするか

明朝時代、この王朝の首都は元々南京でした。その後、永楽帝が北京の地から兵を挙げ、首都を北京に定めました。そのため、南京は王朝の副都と定められ、北京と同等の組織を持っていました。ただし、政治の実権は北京政府が持っており、副都南京の官僚は名誉職的な扱いだったそうです。

清朝は、この南京を征服し、明朝の官僚を大量に配下に迎え入れましたが、この都市をどの様に位置付けるかについては、議論が定まっていませんでした。当初ドドが南京を陥落させましたが彼はすぐに北京に呼び戻され、追って満州族のリーダーと共に洪承疇が南京にやってきて、この問題に取組みます。
清朝は、基本的に北方の満州族の建てた王朝で、南京の街に対する特別な思い入れはありません。また、副都を設ける特別な政治的意図も有していないため、洪承疇は最終的に、南京を副都から江南省の省都である江寧府とすることにしました。

この、南京を副都から省都に降格するという政治的決断は、明朝の官僚を多く抱えることとなった清朝にとっては、かなり厄介な問題だったろうと想像できます。南京における官僚のつける役職が大きく削減されることになるからです。
洪承疇は、清朝の信任を受け、なおかつ漢人の人的ネットワークを把握しているというメリットを活かし、この決断をソフトランディングさせました。

江南地方の人事と行政

ドルゴンは北京に陣取り、腹心に弟のドドを配置し北方における清朝の統治システムを構築していきます。順治帝時代の前半8年は、ドルゴンの指導による政権運営になります。

そして、この時代の江南地方の政府の運営は、その大きな部分を洪承疇が担っています。恐らく、この土地にも人の輪にも疎い満州族の人間にとっては、この地で政治を動かしていくのは荷が重すぎたのでしょう。そのために漢族である洪承疇がその役割を果たしました。
この様な役割分担を、満州族と漢族で振り分けることができたというのが、清朝が260年に渡って中華の地で政権を維持できた理由なのだろうと考えています。同じ様に北方から起こったモンゴル族の元王朝は、モンゴル族のやり方を中国全土に押し付けようとして、かえって漢民族の反発を受けたきらいがあります。その点、清王朝は柔軟な対応をしており、その代表的なものがこの江南における、洪承疇の行政官としての活躍だったのだと思います。

残存する反清勢力

隆武王朝が崩壊し、清朝が中国南部の統治を始めた際、清朝に反対する政治勢力はまだ広範に中国南西部に広がっていました。そのうち主な勢力を挙げておきます。

福建の鄭家軍
前回まで紹介した様に、福建の鄭家軍は安海を失いましたが、廈門島に新たな根拠地を設けて清朝への抵抗を続けていました。この軍団は鄭芝龍を裏切り同然に北京に連れ去られてのち、反清朝一色に染まってしまいます。軍事的に打ち破るしか方法がなくなってしまいます。
しかし、清朝側は執拗に鄭芝龍からの発言も交えながら、平和的に清朝の元に降ることを説得し続けます。鄭家軍は、この交渉に乗るという姿勢を示しつつ、反抗のための戦力を蓄え、時間稼ぎを続けていくことになります。

広東の永曆皇帝

隆武帝亡き後、新たに南明の皇帝に祭り上げられたのが永暦帝です。この王朝は弘光帝1年、隆武帝2年という短命政権と比べると、1646年から1662年の16年の長きにわたって帝位にあり続けます。

この皇帝は、やはり自ら指導力を発揮するタイプではなかった様です。冠の様に様々な反清朝勢力のグループにシンボルとしておかれ、その勢力の盛衰と共にする。その様な動きしかできていない様に感じられます。

四川の大西王朝、李定國

もう1人、日本ではあまり紹介されていない人物、李定國のことを説明します。
明朝末期に起こった農民反乱軍は、最終的に2つの王朝を作っています。李自成の作った"順王朝"と張獻忠の作った"西王朝"です。このうち順王朝は1649年に滅ぼされますが、西王朝は当初は独立して、のちには南明の永暦帝の配下に加わり、長い間反抗活動を続けます。その西王朝の軍事的指導者が、李定國です。
彼は、張獻忠配下の有能な武将として名を上げ、張獻忠亡き後、指導的地位につきました。張獻忠は残虐な行いが甚だしい人物として有名ですが、この李定國はその様な行いはなく、善良な統治者としての名声を各地に残しているという偉人です。
この様な人物が、理性的な判断として、自ら帝位につくのではなく、永暦帝を頭に据え、反清勢力が団結してことにあたろうと動き出すのです。

中国南西部には、まだこの様な反清勢力が残っており再起を目指す、隙あらば中原への反抗を実行する。その様な恐れがまだ十分にある時代でした。
洪承疇は南京にありながら、これら中国南西部の安定を目指し、統治のシステムを整備して、漢人官僚をうまく吸い上げて登用し、清朝の役人として使っていく。その様な行政長官としての役目を果たしていました。

順治4年、洪承疇は弟の洪承畯から故郷南安で父が亡くなったという知らせを受けました。朝廷に対して、父の葬儀に参加するため丁憂の儀式を取るための帰郷を願い出、それは許されました。

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