【福建の旅】晉江
"明清交代人物録"の鄭芝龍編で紹介したように、鄭家とそのパートナーである黄家の本拠地は、今回紹介する晉江という街です。黄家はここの名家であり、鄭家はここから少し田舎にある石井という街から出ています。
この場所は泉州と厦門のちょうど中間にあり、泉州からローカルバスで行くルートを確認して出かけました。
地球の歩き方を見てもこの街の情報は全くなく、インターネットの地図で想定して、街の中心部に近いだろうと思われるホテルを予約しただけで、後は現地で何とかしようと出発しました。こんな旅行をしたのは、学生の頃ウィーンで聞きかじった情報を元にトルコの田舎町エディルネに行った時以来です。
【龍山寺】
一日目にホテルのチェックインを済ませて街を歩いていたところ、道路の案内表示に"龙山寺"と書いてあるのを発見しました。これは繁体字で書くと"龍山寺"になります。もしかすると、台湾に沢山ある龍山寺のルーツなのではないかと考えました。台湾の多くのお寺や廟は、清の時代に多くの移民がやってくるのに伴って台湾に分祠しています。そうであれば、福建の地に龍山寺があることも合点がゆきます。
海沿いから山の中腹に向かって歩いて小一時間、目的地に着きました。お寺の中には詳しい説明がありました。ここは、やはり龍山寺の本家でした。そして、福州や泉州で見たお寺が全く参詣者がいないのと比べると、この龍山寺にはたくさんの人が集まっていました。この違いはどこから来ているのか、理由は定かではありません。とにかく,ここは生きた宗教施設であることに安心しました。
台湾では、台北、淡水と鹿港で龍山寺を見たことがあります。それらの龍山寺とこの場所が繋がっているのだと実感できました。
【安平橋】
これは、黄家が晉江の街のために私財を投げ打って建設した橋です。橋は、歴史的建造物として指定されていました。このような公共インフラに関わる工事を行うというのは,地方の名家となるのに必要なことで、このようにして街の歴史に名を残すわけです。
現在のこの石橋が、昔のままで残っているのかどうかは怪しいですが、このような橋桁の上に架けるのではない、飛び石のように作る橋は浙江省の農村でも見たことがあります。日本では、鴨川のY字部分にありますね。この橋の作り方は、古い時代のものであることは間違いないと思います。
【石井鎮】
晉江の街から海の方にバスで20分ほど行ったところに石井の街があります。現在この街は見たところ石材の積出し港となっているようでした。金門島に航行する船もありました。しかしそれは観光客を乗せるためのものではなく、貨物の輸送をするためにだけ利用されている様子でした。
街の中に、商業的な活動はほとんど見受けられず、古い住宅もあることはあるのですが、ほとんど朽ち果てるに任せるという状態でした。しかし、この場所が鄭家の本拠地であったのだろうと、2時間ほどかけてこの廃墟の中を歩き回りました。
この古い住宅群は、海から少し高くなった傾斜地にあります。海のそばは工業港、中腹は廃墟となった住宅地、上の方には新しい道路と街が整備されていました。
そして、そのボロボロの住宅群の中に、"英雄鄭成功古蹟"と石碑のある建物を見つけました。しかし、その石碑も先端が割れており、住居跡も崩れかけのままでした。とてもそのような歴史的由来のある建物には見えませんでした。
恐らく、石井鎮としてこのように場所を特定したが、それが上の政府機関ではまだ認められていないということなのだろうと想像しました。これが本当に鄭氏の住居跡であったなら、その歴史的価値はとても大きいはずです。
この石井という街は、鄭芝竜の海上帝国が存在していた時大いに栄えたものが、清朝に焼き払われ灰燼に帰するという運命を辿っています。その後に建てられた建物ばかりで、それ以前の様子はまるで分からないというのが実態なのかもしれません。
いずれにしろ、鄭家軍の本拠地はこの地にあったであろうこと、この傾斜地の土地に彼らが生活をしていたことを想像してみることはできました。
【鄭成功記念館】
街のはずれの海に面した高台の上に、鄭成功記念館がありました。こういう施設が厦門にあることは知っていましたが、こんな石井という片田舎にもあることは全くの想定外でした。
これは、鄭成功がこの石井鎮という土地から出た英雄であるということを、この街の人が誇りに思っているということなのでしょう。後に見る厦門の記念館が、国家の英雄として祭り上げられているという印象なのに対して、この記念館での説明はもっと地元の史実に即した、身の丈に沿った説明をしているように感じられました。限られた時間しかなかったので、詳しく内容を把握するところまではいきませんでしたが、次回来ることがあれば、もう一度詳しく読み込んでみたいと思います。
【斉天大聖廟】
街では古い建物が次々と壊され,高層のマンションに建て替えられつつありました。その工事中の高層建物の前にとても特徴的な形をした廟を見かけたので近付いてみました。
四角い低層部の上に、八角形の塔が載っているように見えます。まるで王冠が載っているようなその造形に興味が湧き、何の神様を祀っているのだろうと、中の様子を覗いてみました。
すると、中には猿の彫像がありました。もしかすると、これは斉天大聖ではないかと、廟の名前を確認したところ、確かに"斉天大聖"とありました。
猿の神様は、インドにおけるハヌマーンが東南アジア経由で中国に伝わったものと聞いています。この石井の地に"斉天大聖"を祀った廟があるということは、ここが海を介した交易ネットワークの中にいたということを示している確かな証拠であろうと思いました。
二日間の街歩きで
何の下調べもなく、ツーリストインフォメーションがあるわけでもなく、スマホの地図と自分の目を頼りに晉江と石井の街を二日間歩き回って、このようなものを見てきました。二日目の歩行距離は27kmにもなっていました。石井鎮への行き帰りにローカルバスを利用した以外は、全て足に頼らざるを得なかったので、こんな距離になっていました。
しかし、このように多くのものを見たおかげで、ここは確かに鄭家軍の本拠地であったことが実感できました。この場所に鄭芝竜が錦を飾り、平戸から鄭成功を呼び寄せ、そして東シナ海と東南アジアを結ぶ交易ネットワークを作ったのだと。晉江の黄家と石井の鄭家の関係は、この晉江と石井の距離と街の格の違いを前提に考えなければならないと感じました。
そして、台湾の多くの出来事のルーツが確かにここにあるのだと感じることが出来ました。鄭芝竜の船団で台湾に送られた移民は石井鎮の港から出発したのであろうし、龍山寺を台湾に分祀する相談は晉江でなされたに違いありません。そんな想像が頭の中を駆け巡りました。
実に収穫の多い二日間の旅でした。