【明清交代人物録】洪承疇(その二十二)
南明の最初の政権、弘光朝はこの様な王朝でした。組織的に、既にまともに清朝に対応することはできないような体制です。それに輪をかけて、彼らはこの北方で起きている事態に対して大きな判断の間違いを犯しています。そして、この王朝は何ら打つ手もなく崩壊していきます。
誤認
弘光朝が成立するのは、農民軍である順軍が北京で崇禎王朝を崩壊させたあとです。それまでの過程で、南方における明朝の主要な敵はこの順軍でした。江南地方から北を眺めた時に、明王朝と争っていたのは順軍であると見えたでしょう。
そのため、弘光朝は順軍を主要敵と考えていました。北京が電光石火の速さで清朝に落とされた後もこの認識は変わっていませんでした。この北方の事態の変化はあまりに激しく、情報も混乱していたのでしょう。或いは、吳三桂が山海關で順に着くか清につくかで悩んでいたように、事態があまりにも流動的で正確な把握は困難だったのかもしれません。
清朝は北京で福臨をあらためて順治帝として中華帝国の皇帝として即位させたのちに、西の李自成の農民軍と、南の明王朝を討伐するため二つの方面軍を派遣します。当初、西では平西王吳三桂を、南では弟のドドを総司令官としました。しかし、軍事的には農民軍の方が頑強なため、方針を転換しドドも西に向かわせます。
李自成は、混乱の中命を落としてしまい、順王朝は尻つぼみになっていきました。農民軍は、カリスマの将領を失うとその勢いは失せていきました。
清朝が西の農民軍に集中している間、弘光朝では束の間の享楽に時を費やしていました。
弘光帝は気に入った妃がいない。もっとたくさんの女性を後宮に送れと馬士英に指示をしたそうです。宦官系の組織であった彼らは、皇帝の意図するままに動きます。あるいは皇帝を手玉に載せるために、受けのよいことしか伝えない。明の末期に崇禎帝が戦争の実情を何も知ることができずに、死地に自らを追いやったと同じことを、この皇帝はその政務の初めからすることになります。
弘光朝では、満洲族が明王朝のために李自成を倒してくれたのだと考えていました。そのために北京に慶賀の使節を送り、清朝の協力を感謝することにしたのです。これは、或いは相手の意図をさぐるという使節だったのかもしれません。
そして、ドルゴンはこの使節を受け入れませんでした。ドルゴンは、弘光朝側の使者が清朝への帰順を示すものであればこれを接見するが、そうでなければ会わないと方針を定めていました。
清朝内部では、このような使節は無礼である、殺してしまえという声もあがりましたが、洪承疇がこのような外交交渉の使節は殺すものではない。交渉の窓口は常に残しておくべきであると説得したそうです。
南明征討
南明はこのファーストコンタクトで、ようやく清朝が何者であるかを知り、事態は深刻であると気がつきました。しかし、このことに対応するためにどうするか方針は定まりませんでした。王朝を牛耳っている宦官閥は皇帝に対する太鼓持ちの様な人物ばかりで、軍事的な能力を持っていません。
唯一、実務能力を持つ史可法が覚悟を決めました。周りに頼りになる将領がいないなら、彼単独で清朝に対する徹底抗戦を行う。史可法は南京の外周部に位置し、大運河交易の拠点である揚州に籠もりました。この戦略は、弘光朝の首都南京を守る盾となるということでしょう。
しかし、彼に勝算はあったのでしょうか?
ドルゴンは、南征にあたり次の様な布告文を江南の各地に送っています。簡単に言うと、"清朝に降るものは優遇する心配するな。抵抗するものは皆殺しにする。黙って我々のいうことを聞け"という脅迫でしょう。
「汝ら南方の諸臣は、明の崇禎皇帝が流賊の難に遭い、宮殿が焼かれ、国も家族も崩壊しているというのに、一人の兵も送らず、一矢も報いず、鼠の様にこそこそ隠れているだけだった。それが第一の罪。我が兵が進軍し、流賊が西に逃げた後も、汝ら南方の臣はまだ北京に信書を出していない。そして、先帝の遺詔もないのに、勝手に福王を立てている。これが第二の罪。流賊は汝らの仇であるのに、これを討伐せず、ただただ権威をかざし市民を害している。その上、我々に向かい戦端を開こうとしている。これが第三の罪。この三つの罪だけで,天下の人々はみなこれに憤り,天がこれを許さないであろう。よって、我々は天命を奉じ、六つの軍団を整え征討の軍を発する。各地の文官武官で率先して城を解放するものは、功の大きさに鑑みそれぞれ一級を昇格させる。我が命に逆らう者は、本人は殺され、その妻は捕虜とする。
もし福王が前非を悔い、我軍に投降すれば、その罪を許し、明の諸王と共に優遇する。また、福王親族については、改心して帰順すれば、その功の大小に鑑み、そのまま扶養する。各地の市民は慌てず、農民商人はそのまま安んじて仕事を続ける様に。
前記のように布告する。詳細は我が軍の使節と相談せよ。」
この文章の作成に、洪承疇は関わっていたかもしれません。清軍が向かう中国南方の地は、彼の生まれ育った地でもあります。
楊州十日
清朝の攻勢に対して、この時点まで南明側から抵抗らしい抵抗はありませんでした。揚子江以北の地は、農民軍に荒らされ、各地の官僚も守備軍もほぼ崩壊した状態でした。その上で、更に北京で崩壊した農民軍が雪崩れ込み、それを清朝の軍隊が攻勢をかけてくる。全く抵抗する手がかりさえないわけです。
清軍は南京攻略にかかります。そして、この間首都を落とすための前哨戦として、揚州の戦いがありました。先に紹介した布告文の様に、清朝は抵抗するものは厳格に処罰する、投降する者は優遇すると明言しています。しかし、揚州守将の史可法は、徹底抗戦を覚悟しました。
攻城側のドドは、揚州城を清軍に抵抗するものはこのような仕打ちに合うのだという、見せしめにするよう決断したのでしょう。布告文では抵抗した将は殺すがその妻は命は奪わない、捕虜とすると書いています。しかし、この約束は破られました。揚州は、史可法の軍隊が崩壊した後、十日間掠奪と殺人の嵐に見舞われました。
この揚州における大殺戮は、後に清朝に対する抵抗運動が起こった際に、清朝による悪事の一つとして大きく宣伝されることになります。
南京開城
南京城では、目の前の揚州で起こったこの惨事に既に戦意は失われてしまいました。そもそも、軍隊も軍事的な指導者もおらず、戦闘どころではなかったのでしょう。弘光帝を擁立した馬世英も阮大鋮も、皇帝を放り出して逃亡してしまいました。弘光帝は南京城に放置されたままでした。これは、北京で崇禎帝が置かれた状況と同じです。
幸い、南京には文官である錢謙益が残っていました。この文人官僚には軍事的能力はありませんでしたが、南京の政府を代表して清軍と交渉する力はありました。ことここに至っては、南京を揚州と同じ目に合わせるわけにはいかないと考えたのでしょう。城を無血開城することに決断しました。そして、南京政府を代表して清軍を迎え入れます。
歴史的評価
この揚州と南京の事態に対して、中国の歴史書を読むと、圧倒的に史可法の評価が高く、錢謙益の行動は無抵抗で開城するなどとは、プライドのかけらもない輩であると、厳しいものになっています。
僕の印象では、大体において中国の歴史書を読むと、このような事態で異民族政権に対し徹底抗戦を敢行した漢民族の人物の評価は、高くなる傾向があります。岳飛であるとか、鄭成功などの人物です。これは、漢民族のプライドを満足させる、異民族政権に最後まで抵抗した漢族の英雄というバイアスがかかっているのだと僕は考えています。
例えば、日本史を考えた時に、明治維新の際に江戸城無血開城を決断した勝海舟に対し、日本人はそこまで否定的見解を持っているでしょうか?明治政府に抵抗を敢行した彰義隊をそこまで英雄視するでしょうか?そうはならないと思います。これは、日本人にとって、明治政府は現在まで連なる日本人による日本の政権であるからです。
一方、現在の中華民国にしろ中華人民共和国にしろ、その政権の中核は漢民族であり、それに対して清朝は異民族である満州族の王朝です。従って、この満州族になびいた漢族の人物に対しては、俄然評価が厳しくなります。
僕は、上記の明治維新の江戸城無血開城の事例からの類推で、錢謙益の南京開城は市民を守るためには適切な判断であったのだろうと考えています。それと比べると、史可法の揚州における徹底抗戦というのは、市民20万人を巻き込む大惨事となった悲劇です。史可法は、この決断をしたために歴史的な英雄となっています。しかし、その代償はとてつもなく大きなものでした。