長崎・外海(そとめ)で出会った祈りの光景
「長崎に行きたい」
そう言い出したのは妻だった。隣の駅に素敵な器を扱うお店がある。女性店主は話好きで私なんかはお店に遊びにいくとそのまま彼女のおしゃべりに一生捕まっているのだけど、その人の話を聞いて妻が突然「沈黙」を読み始めた。言っておくが別に宗教の勧誘にあったわけではないし、変な壺買わされたりもしていない。
「沈黙」は名作と呼ばれる類ではあるのだけれど、出てくるキリシタンへの拷問の描写もあり、耐性の低い妻は「う〜」とか布団で悶えながら、大して読み進めずに寝落ち、みたいなことを繰り返していた。私も毎日妻から沈黙の進捗を部下の案件の進捗よりも遥かに事細かく聞かされ続け、ちょうど先日読み終えたようだった。
歴史を理解を終えたら、次は旅。
冒頭の「長崎に行きたい」に繋がる。
最近の妻発進の旅は歴史ドリブンである。ちょっと前は渋澤栄一から富岡製糸場経も行ったりした。世の中の最近の旅のモチベーションがSNS・写真ドリブンなのを考えるとちょっと異質ではあると思う。
さて旅から帰宅後、私が沈黙を読み直したのも、このnoteを書いているのもすべて長崎・出津で忘れられない出来事があったからだ。
出津の教会へのアクセスはお世辞にも良いとは言えない。そもそも外海の裏寂しいところにある。近くには「何もない展望所」なんて所があるくらいだ。
外海歴史民俗資料館の駐車場に車を止め、アップダウンのある坂を10分ほど進む必要がある。飛び石の平日ということもあり、誰ともすれ違わなかった。
そうしてたどり着く、出津教会堂は決して写真映えするような教会堂ではない。ステンドグラスもないし、柱も木材でできており、目立つ意匠や飾りなどもない。教会の構造自体もシンプルでゴシックのように高く積み上げられた尖塔はなく、バシリカスタイルかと呼ばれるとそういうわけでもなく、ただの長い箱のような形状だ。壁も白く、この前に見てきた黒崎教会の煉瓦とブルーのコントラストから比べるととてもおとなしい。
写真を撮る、という目的だけを優先していては決して辿り着かない場所だった。
「今日はどっちほうから来られたと?」
穏やかな口調で投げかけられたその言葉に振り返ると、そこには小柄で柔和な笑顔の老婦人がいらっしゃった。雰囲気から察するに教会の関係者の方だろう。東京から来たことを伝えると「まぁ〜遠くからはるばるいらっしゃったんね」とその笑顔のまま返してくれる。
「私のおばあちゃんがね、私が子供の頃、いっつもド・ロ様のお話ばっかしよったとですよ」
その優しい声が心地よく教会内にしっとりと響く。
少しここで歴史をまとめよう。
1614年にキリスト教の信仰が禁じられてから、この外海を含む長崎のキリシタンたちの歩んだ道行きは暗く、そして重いものだ。
「沈黙」の中でも村人たちの生活がそもそも貧しく・苦しいものであったことが描写されたうえで、さらにその身に降りかかる信仰への責め苦が描写されるのだ。
雲仙地獄での熱湯での拷問や穴吊り、そういった弾圧と殉教の歴史を経てもなお信仰を続け、やがて禁教下にも関わらず大浦天主堂で信仰を告白した潜伏キリシタンたちの勇気を思うと自身の信仰の有無に関わらず胸が震える。
明治政府により禁教が解かれ、ド・ロ神父がこの出津教会主任司祭として赴任したのはその「信徒発見」から十数年後のことだ。
マルク・マリー・ド・ロは教会の設計や建立だけでなく、「陸の孤島」であった出津で信仰のみを糧に貧しい暮らしをしていた人々に織布、織物、 素麺、マカロニ、パン、醤油の醸造などの産業を与え、また教育を行い、自立を促した人物である。
この出津では親しみと敬意を込めて「ド・ロ様」と呼ばれる。
「ド・ロ様はばり大きか人やったと。いつもこの坂を下って授産所に行く時ぴょんぴょんぴょんって大股3歩くらいで着くばいね、って私のおばあちゃんがよ〜う言いよったばい」
100年以上前に亡くなった人物だと言うのに老婦人の言葉に込められた少しコミカルな描写には地元の方々の愛情がにじみ出る。村の子供が抱きつく神父の像でもそれは同様だ。貧しく、弾圧の恐怖に怯えながら暮らしてきていた人々にとってド・ロ神父の存在がどれほどの救いであったか、想像に難くない。
彼女は祖母から聞いたというド・ロ神父のエピソードをいくつかお話してくださったのだが、ふと一呼吸つくと
「うちも当時は興味なかったとばってん、今思うとおばあちゃんの話ばちゃんと聞いとけばよかったなぁって思うんばい・・・」
後悔を滲ませながら、長崎の方言混じりにそう語り、また優しく微笑んだ。
さり気なくこぼれた老婦人の言葉に、なぜか私も妻も涙が込み上げてきていた。
彼女が生まれる前の、見ていないはずの光景。
それでも何かを伝えたいという祈りのようなものがそこにはあったのだ。
口頭伝承は少しずつ失われていく。だが、この老婦人の語りの中にこそ今は出会うことの叶わない神父の姿やその手触りが生きている。
「こん教会ば、他ん教会から比べたら質素な作りなんやばってん、村に教会がでくることになったことみんな心ん底から喜んどったばい」
教会堂の設計にも神父の思いは込められている。海風の強い斜面でも永くその姿を保てるように内側は白漆喰、外側はコンクリート。建物の高さはやや低めにされ、強風で扉が壊れることのないよう引き戸になっている。土地に根ざした深い理解がなくてはこうはならない。
繰り返すが、決して写真映えするような教会堂ではない。
だがそれ故に込められた願いを部外者でも痛いほど感じることができる。
貧しい人々にとってここがどれほどの拠り所だったのか?
その人たちのために神父がどんな願いを込めて教会堂を建てようとしたのか?
彼女がどんな思いでそれを今語り継いでいるのか?
ド・ロ神父が150年保つように設計し、今が141年目だ。出津の人たちのため、永く残すための想いがカタチになって作られ、残され、そして守られている。
「もっとちゃんと話を聞けばよかった」と話す老婦人の悔恨すら、神父が願ったその150年目を誰かが見届けることできっと肯定されるのかもしれない、と思う。
禁教下、宣教師が去り、絶望的と思われた状況から日本国内での信徒発見の奇跡に至るまでの210年間。
その後、待望の教会が建立されてからもうすぐ150年。
人の思いは時間を超え、言葉を超える。
それが私が外海で見た祈りの光景だった。
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