見出し画像

新卒1年目5月の振り返り~「個性」について考える~

はじめに

『1分で話せ』という書籍でおなじみの伊藤羊一氏がTwitterでつぶやいていたあるツイート。

小学校→個性は認めない
中学校→個性は認めない
高校→個性は認めない
大学生→個性的な人はカッコいい
就活→個性を見せろ
社会人→個性は認めない。


この現状を変えて、全世代で「個性こそが大事だ」とするのが、自分の生涯かけてのミッション。頑張るぞ。
(https://twitter.com/youichi_itou/status/1463999438326620162?s=21&t=7_1I7vIVQq6ODKnEAaOMIg)

こういった内容を以前つぶやかれていた。

「個性は認めない」社会人の段階に入った僕。
そんな僕が自分なりに思う「個性」について、
今回は書いていこうと思う。

冒頭の伊藤氏のツイート。僕は激しく同感する。
僕は4月より社会人の世界にがっつりと足を踏み入れたが、
もう一度言う。激しく同感する。

では、「個性」とはどういう物なのか。
本当にこれは人それぞれの捉え方があり、それこそ、100人いれば100通りの捉え方がある。なので、正解はない。したがって、今回は深く掘り下げない。

ただ、僕は「個性」を
「自分から無くなってしまうと自分が自分ではなくなってしまうもの」とでも定義しておく。
有難いことに、高校から大学卒業までの間に、自分がどういった人間で、どういうことを大切にしているのかという自分の個性をは、大まかに見つけられたと思っている。(多分、、笑)
いや、でもまだ明確にしなくてもいい。

そして自信を持って、社会人の世界に飛び込んだわけだが、やはり伊藤氏のツイートのように、今のところ「個性は認めない」風潮を強く感じる。(会社が悪いわけではない笑)

例えば、僕はどうもこの関西弁交じりの下手くそな敬語があまりにひどいようだ。(笑)
もちろん、ビジネスの場であり、あらゆる場面で我を貫き通すことが必ずしも良く働くとは限りないことは重々承知である。拙い敬語を直さなければいけない部分であるのも重々。(笑)

でも、これまで関西弁交じりの柔らかい話し方を武器にたくさんの経験を積んできたことは紛れもない事実。これをすごく否定されているように感じてしまう自分がいる。(アウェーの土地で働くことを選んだ自分の宿命でもあるが)

自分が大切にしてきたものを押さえつけられることはすごくストレスになる。
しかも、日頃小さく、少しずつのストレス。
こういう積み重ねが1番怖い。

できることをもっと伸ばすのではなく、
できないことをできるように。
どの場面でもマニュアル化、画一化される。
もちろんできないことをできるようにすることは大切だが、できることを伸ばそうということはもっと大切だと思う。

社会人の何がしんどいかって、「小さな自分への妥協」だと思う。
他人への妥協は耐えられる。
しかし、自分への妥協は僕には非常に苦行だ。

大人になったんだから、我慢しろ。
社会人だから、仕方ないだろう。

もちろん、それはそう。
でもそんな大人になるくらいなら、まだ僕は子どもで良い。
これはこれからまだ数年働くであろう、自分への向けたメッセージとして残しておきたい。

自分にとって、たくさんしんどいことが待ち受けているだろうが、この気持ちを忘れないでいてほしい。
この気持ちが無くなってしまうと、”川口裕登”という「個性」が消えてしまう。
「個性」を存分に発揮する社会を作るうえで、自分自身がつぶれないように、常に戦って、生きていきたいと思った。

おわりに

今回はとにかく思うがまま、日々の思いを記してみた。拙い文で申し訳ない。

もちろん、アウェーな環境の中であえて社会人という道を選んだ自分自身の選択の上で、この葛藤を抱いているわけなので、苦しんで当然。

社会はビジネスで回っている。
ビジネスとは英語でBusiness。要は忙しい状態。
ビジネスを中心に、プライベートまでもが予定や時間に追われてしまう。
どうもこの資本主義社会では、結果を出すこと、成果を上げることばかりが求められ、個性云々などはあまり重視されない。

少しずつの妥協の積み重ねは人間を狂わせる。

狂わないために自分は自分自身の1番の味方になってあげたい。
出る杭は打たれる社会だからこそ、
とことん飛び出してやりたい。

そんなこんなで、社会人頑張っていきます。

おわり

2022/6/6



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集