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きらいを肯定されたい大人たち

「人って、好きだけじゃなくて、きらいな気持ちも肯定されたいんだね」と友達に話したら、間髪置かずに「そりゃそうでしょ」と返ってきた。
すこし動揺した。

SNSでよく触れる他人の「きらい」という感情とどう接するべきか悩み、友人に投げかけたときの返事がそれだった。

そりゃそうか。好きもきらいも、人は肯定されたい。たしかに、ごく自然で当たり前のことだ。

でも、なんだか、すっと飲み込めなかった。なぜだろうか。


そもそも、この世界というのは、他人の「好き・きらい」を無償で受け止めてくれるほど、やさしさで満ちてはいない。

「寛容でいよう」と理想を掲げることはできるが、誰しもが心にゆとりを持てる世の中にはきっとならないと思う。

ヘイトはヘイトを生むし、どんどん連鎖して暴力的な方向へ転がっていく。そんな光景はおそらくこの先も続いていくだろう。


僕は普段「感情の出力」をコントロールしているが、自分はこの操縦がかなり下手である。正直生きにくさを感じることも多い。でも、できる限りやろうとしている。

ソーシャルな場であるほど、そして影響力の大きい立場になるほど、上手な感情の出し方を求められる。身近なシーンでも、否定感情のアウトプットが行き過ぎると信用の喪失につながる。

それが人が離れてしまう原因にもなるから、やはり制御できるに越したことはない。


「感情の出力」のなかで特に慎重になるべきなのが「きらい」のアウトプットだと僕は思う。

感情は、ぶつける強さが大きすぎたり、鋭角すぎたり、力加減がわるいと、他人のキャッチャーミットに上手く収まらなくなる。

相手が受け取りやすい「きらい」の投げ方ができないと、投げられたボールがどこかの窓ガラスを割って、知らない誰かの逆鱗に触れるなんてことも当然のようにある。

例え自分が「きらい」を持っていたとして、この感情を投げるときはよく周りを見ること。このボールには人や物を傷つける能力がある、ということを忘れないようにしたい。


我々には「表現の自由」があるだろう!なんて反論が聞こえてきそうだが、単純な自由というのは、そもそも、孤独の別称であると思う。集団のなかでは多少の不自由が伴うものだ。

僕が言いたいのは「表現の自由」と「他者を尊重する意識」のバランスを取ろう、ということだ。これは人間関係においての体幹であり、この筋肉を鍛えることで手に入るのは、生きやすさであると思う。トレーニング方法は良識ある人物との連続的なコミュニケーションではないだろうか。


「きらい」を肯定されたいはずなのに、出力の仕方が下手なせいで、世の中から浮いてしまう大人たち。別に浮いていたって良いわけだが、せっかくなら苦しまずに生きていきたいものだろう。

その原因はきっと、コミュニケーションの運動不足。できるだけフットワーク軽く、健全な会話を増やしていきたいものだ。

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