自分のことばを探す旅
言葉を失っている!
自分の言葉で、自分の気持ちを語れなくなってしまっている。
そんな気がする。
映画を観たあと、アーティストの新譜を聴いたあと、自分の感想が固まる前に、他人の感想をネットで検索してしまう。
自分の意見を代弁してもらっている気になって、誰かの言葉を借りて、いかにも自分の考えかのように、人にあれこれ語ってしまっている。
そんな気がする。
数年前、音楽雑誌でコラム執筆のオファーを受けたとき。納得のいくレビューが全然書けなくて、自分がこの状態に陥ってることに気づき、大変なショックを受けた。
あぁ、このままではいけない!
思考を止めてはいけない。
書く筋肉を動かさなくてはいけない。
僕は、僕の言葉で、自分を語れるようになりたい!
とまぁ、こういった経緯で、noteの更新を再開したのが、去年の春だった。
「月に1度、自分のことばで、書きたいことを書く」というマイルールを携えて。
あれから、ちょうど1年が経った。
おかげさまで、個人的なヒット(?)と呼ぶべきか、それなりに反響をいただいた記事は、年間で2本あった。
いずれも僕の過去と生き方に関連する文章だ。
僕の「人間の部分」に読者が興味を持ってくれているのだと思うと、恥ずかしくも嬉しい気持ちになる。
さて、1年間こうして書いたことによって、なにを得たのか、変わったのか、という話をする。
端的に言えば、僕が得た結論は「誰かの言葉を借りても、いいじゃん」であった。
冒頭の文を否定するようで申し訳ないが、まぎれもなくこれである。
「誰かの言葉を借りる」というのは、言うならば二次創作であり、セレクトショップのバイヤーのようなもの。
イベントのブッキングや、DJパフォーマンスにも近しいものがある。
選び、委ねる。
AI化が進んでいる現代においては、むしろ、この「二次創作力」の方が世に求められているのではないか。
そう思えるようになってきた。
しかし、もちろん自分由来の発信こそが、すべての土台であることは間違いない。
オリジナルを生む楽しさと苦しみには、そこにしかないカタルシスがある。かけがえのないものだ。
そもそも、代弁というのは(良くも悪くも)人の心に刺さりやすくできているから、本来の力を見誤りやすい。
ネットの口コミがやたら気になるのも、きっとそれのせいだ。
まず体幹を鍛える。自分で考え、アウトプットする。その上で、「二次創作力」をコントロールする力を手に入れる。
1年間やったからこそ、この過程の必要性をひしひしと感じる。
代弁を使いこなし、説得力のあるパフォーマンスができるようになるために、僕はもうしばらく、自分のことばを探す旅を続けようと思う。
お付き合いいただきいつもありがとう。
これからも、よしなに。