西洋美学史 第四章 期待と記憶――アウグスティヌス

はい。そういうわけでね。今回は第4章「記憶と期待」ってことで、アウグスティヌスなわけです。 アウグスティヌスは354年11月13日 北アフリカ・タガステで生まれます。その、1618年後元・SMAPの木村拓哉さんが生まれるわけです。その他にも女優の大原麗子さん、歌手の由紀さおりさんが同じ誕生日です。で命日は430年8月28日です。
 
「記憶と期待」って話なんですけど、アウグスティヌスの話をする前に、今回もアリストテレスの話があるわけです。アリストテレスは『詩学』って本の中で、「悲劇」とは「一つの全体をなす完結した行為の模倣である」とかなんとか言ってるわけです。でなんで模倣が可能かというと、「筋」があるからだって言ってるわけです。でもそれは作品が一つの全体であることを可能にする要素で、あって全体ではないわけですね。じゃ、何が作品を一つの全体にしてるのか、特に詩みたいな一定の時間を必要とする芸術ジャンルでいうところの、全体ってのはナンジャラホイってわけです。

で、まぁアリストテレスは詩学って本の中で「全体とは始まりと中間と終わりを持つものである。」って言ってまして、途中から始まっても途中で終わってもいけないって言ってます。そんでもって、詩が満たすべき2つの条件をあげてます。一つは、「筋」を構成する諸々の出来事がに「秩序」がなきゃいけないってます。もう一つは、それはある一定の大きさがなきゃいけないって言ってます。特に大きさについては、アリストテレスは生物を例に説明してるんですけど、小さすぎる生き物はなんだあるんだかないんだかよくかわかんないし、大きすぎる生き物は大きすぎるから、全体が観察できないのでそれはそれでわかんないって言ってます。

で引用。

身体や生物の場合、ある一定の大きさが必要であり、かつそれは容易に見渡すことのできるものでなくてはならないように、筋の場合も一定の長さが必要であり、かつそれは容易に記憶できるものでなくてはならない。…筋は、それが明確に組み合わされてる限り長ければ長いほど、大きさという点でより美しい。

って言ってます。秩序があれば大きければ大きほど良いってわけです。でも、この生き物の例えってなんかふに落ちなくね?っていうのがあるわけです。生き物は空間にいるので、大体の大きさを一瞬で知ることができるわけですが、詩の「筋」っていうのは一瞬で見れるわけではなく、記憶されるべきものである。って空間的な全体と時間的な全体はそれを捉えるのに視覚と記憶を必要とするから、生き物の例で「筋」の特質を説明しきれないと、この本では指摘しています。

アリストテレスは時間的な経過を、空間的な全体として理解しているんですね。これ本には書いてないんですけど、個人的に思うのはアリストテレスは詩を演じられているもをライブで見てるんじゃなくて、台本とかその設計図として見てるんじゃないかと思うのです。イントロ、ヴァース、フック。みたいな。ガチャんガチャんていうプラモデル的な?やつ。はいガンダムーってやつ。これが全体だから。みたいなね。

まぁ、アリストテレスはそんな感じ。で本題のアウグスティヌスは、『告白』って本で時間的な全体について説明しています。そもそも過去っていうのは「もう存在しないもの」未来っていうのは「未だ存在しないもの」なんだから、語り得ないものなんじゃないか?っていう疑問があるわけですよ。でこれに対してアウグスティヌスは過去っていうのは、あったものを今の私が振り返るということで「私の記憶の内に存在する」っていうし、未来っていうのは今あるものから「期待」できるっていうわけですよ。だからね「記憶」と「期待」を使えば未来と過去の話をできるというわけです。ちなみに現在は「直観」によって語ることができるっていうわけです。でもって、「過去・現在・未来」って言い方しなくて、「過ぎ去ったものどもの現在」「現在あるものどもの現在」「これから来たるものどもの現在」っていう3つの時があって、「記憶」「直観」「期待」として「精神」のうちに存在する。って言ってるわけですね。

ここで「すでに知っている歌を歌おうとする場合」の話をしてるわけですが、歌い始める前には私の期待は全体に向けられ、歌い始めると「歌い終わった部分」は期待から記憶へ変わるが、私の注意は今に存在して、未来にあったものは、この今を通して過去になるみたいなことを言ってるわけです。要はレコードの針とかカセットのカウンターみたいなもので、聴く前はこれほどあるのか、と思いながらも聞いてしまうと、期待していたものは今聴いているという行為を通して記憶になってしまうみたいな話だと思うのです。ここで言われているのは、すでに知っている作品を演じるにあたっての時間意識の構造で、演じるがわがはじめと終わりについてあらかじめ知っていることが、前提となってるわけです。

でも「終わりがよくわからない」ものはどうなの?って話にもアウグスティヌスは、まぁそれを含むもっと大きな歌の中で大体予想がつくんじゃないか、で人間の生涯に起きることも、その人たちが生きる世紀に関してもそうなんじゃないかな、的なことを言っています。

そうはいうけど、そんなことあるかいって話で、私が私の「全生涯」の「終わり」を正しく期待できるわけがないじゃないですか。「私は私の精神において時を知る」がアウグスティヌスの基本方針ですが、じゃあ、もっと大きな人類の歴史全体について語るような「期待」と「記憶」をもっているのは誰か?っ話になるんですが、私の精神を超えた「多大な知識と予知を備えており、ちょうど私が一つの歌をよく知ってるように過去と将来全てをよく知っているような精神」の想定はしていますが、この可能性については言及していません。で。また別の話で出てきます。

と、そんなわけで、アウグスティヌス『告白』の中で、示した時間的全体の問題はその後十分に論じられることはなかったのですが、バウムガルデンによって期待の問題は「真実らしさ」との関わりにおいて美学の主題とされました。

まぁ、ざっくりいうと、聴いてる人が「あぁそれなんとなくこんな感じになるんじゃない?そんな話しってるよ。」みたいな話は「真実」っぽいって話なんですけどね。

ライプニッツの「可能的世界論」を美学に導入して、現実世界では可能ではないけれど、他の世界では可能であるような「虚構」「他世界的虚構」って呼んでますけど、こういう考えは割とぶっ飛んだ作品を作り出す可能性を芸術家に認めるものであり、かこに囚われず独創的な創作活動を正当化するという点では良いんだけど、まぁそれってかなりハードル高いよね?だから「悪戯にボコスカウォーズとかスペランカーとかたけしの挑戦状とか作るんじゃなくて、ドラクエのナンバリングタイトル作っておけば間違いない」って話ですね。ドラクエってあれでしょスライム出てきて、仲間集めて、魔王やっつけるんだけど、その後に本当のラスボス出てくる的なあれでしょ?っていう話。

そういうドラクエならドラクエっていう世界観が共有されてるものは、のちの製作者にとっても、新しい世界の創造へと自らを駆り立てる素材の役割も果たすし、受容者にとってはその作品を受け入れるために前提される期待の地平をなすわけです。この期待の地平の内にあるのかそのそとにあるのかで受容者はその世界へ行くかいかないか的なあれですよ。

で最後に、ヤウスさんという人が、「期待の地平」をアップデートするような作品こそが芸術的だって言ってるんですね。マザーとか桃太郎伝説とか貝獣物語とかヘラクレスの栄光とかいろんなRPGがあるから、いろいろやってみて。面白いのもあるしつまんないのもあるから、でそういう経験を通して「記憶」とか「期待」をすることができるようになるからってヤウスさんはいうわけです。で、ファイナルファンタジーとかに出会っちゃうと、「期待の地平」を裏切り「これはドラクエじゃないけど、すごい面白い」っていう、「否定性の美学」が彼の特徴なわけです。

まぁ、これだと前衛こそ芸術ってなっちゃうので、後にまぁ、そういうのを認めつつもみんなが楽しめるような「共通の世界の地平」を作り出すことも「芸術」の役割だ。みたいな話をしています。


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