見出し画像

読書感想#2 唯識の思想 自分が無いって、どうゆうこと?

僕は、ポッドキャストの歴史キュレーションプログラム「COTEN RADIO」に、深くハマっております。とても学びが深い。
そのコンテンツで、「三大宗教」「玄奘三蔵」のテーマがあり、その中で語られた仏教の話がとても面白かった。同プログラム深井さんの別ポッドキャスト「ASCOPE」での、仏教が取り上げられ、現役僧侶の松波龍源さんのお話も恐ろしく面白く、深井さんお勧めのこの本を手に取りました。

読了した感想は、「難解だけど、なるほどなあ~。そんな世界観があるのか!」

一人ひとりに、その人の宇宙がある?

いきなり、なんだ?ですよね。
ハイ、僕もそう思いました。でも、読むと納得するのです。

例えば、三人のヒトがいます。その三人が同じ”木”をみます。同じ”木”ですが、それが具体化するのは、眼に光が届き、網膜に投影されて、神経が脳の視覚野に伝達されて、影像(仏教用語の映像)として、そのヒトの脳内で具体化されます。
つまり、三人の各々の中で、再構成されている各々の”木”となります。
僕らの常識ではこの”木”、同じ”木”だとみ三人とも認識しているハズだと”思います”。
でも、それを正確に確かめる術はない。

つまり、各々の心の中に結ぶ影像が、具体的世界。つまりそのヒトにとっての世界=宇宙がある。
その心を”識”と仏教では呼びます。
ここからが中々、常識とは離れるのですが、理論的には、では私たちの周りにある世界は、何か?抽象的世界と定義されます。つまり、唯だ”識”がある、という世界観。これが唯識です。

唯識の構造って、そんなコトになってるの?

さあ、いきなりぶっ飛んでませんか?
でも確かに、理論的に考えれば、それもうなずけるのです。

心=識は、8つで構成されています。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識 これが身体の識で五識。これに、意識が加わり顕在化された識。これに潜在化した識として、末那識と阿頼耶識、とう二つの識を加えて、八識。

意識以外の五識でリアル世界の情報を受け取ります。この情報に、意識が”言葉”を付与する。これは、”鉛筆"だ、”自転車”だetc。元々の存在には、名前はありません。鉛筆なら、"黒い棒みたいなモノを木で巻かれた棒"。これに、"鉛筆"という名前を与えた瞬間に、そのヒトにとって、鉛筆が識の中に具現化します。この存在に、末那識が、執着を付与します。例えば、〇〇さんのことが、好きだ、嫌いだ、憎いetc。これらすべてが出てくる源が、阿頼耶識です。

心理学を知っている人なら、フロイトを思い出すのではないでしょうか。
でも、フロイトとは大きく異なるのは、”自我”の考え方です。

え、自分っていないの?

フロイトは、ヒトの心には、確固とした自我があり、それをイド=無意識、自我、超自我=深層意識と定義しました。
仏教では、ヒトの心=識には、自我がない、”無我”であると定義しています。

え、自我ない?自分はちゃんとあるよ。 と思いませんか?

仏教では、他者との関係性で自分は在る、と捉えています。

例えば、家族での自分、会社での自分、友人との付き合いでの自分、etc。
それぞれの場面で、”自分”って変化しませんか?
六識によって相対する”対象物”(ヒト、モノ)によって、自分が規定されている。

仏教では、見る”対象物”があるから、心=自我がある。では、その”対象物”が抽象的存在、つまり存在が不確定であれば、結果、自我はない。
これを、”無我”といいます。自分とは在って無きようなもの。

おいおい、飛躍しすぎだろう。というツッコミが聞こえそうです。
僕はなるほどと思ったのが、心は何処にフォーカスするかで、その在りようが変わる、ということ。
昔から”病は気から”といいます。気に病むコトに心が
囚われると、身体の具合も悪くなる。

最新の脳医学でも、人間の脳は階層構造になっていることが分かっています。身体を司る、視床下部・脳幹・延髄、情動を司る情動脳、思考を司る大脳皮質、精神を前頭葉機能。
この中の情動=”心の状態”によって、身体も思考・精神も大きく影響を受けることが、分かっています。

つまり、心は固定化されておりません。
常に流れる川の如く変化する。 

川って、常にそこにあるようで、その実態の水は常にそこには無い。
仏教では、阿頼耶識が深層自我では?と問われると、この川の流れを引用して、常に流れ、今の刹那では捉えられないと説明します。

この考え方、何処かで聴いたと思いました。
分子生物学の福岡伸一さんの、「動的平衡」。
ヒトの身体は固定化されているようで、個々の器官、皮膚なら1日、脳なら1年、血液なら4ケ月で全て新品になる。

川の流れのように、ヒトは固定化されず、動的な平衡状態である。

ちょっと外れますが、、何故か似ている量子力学

ちょっと外れますが、皆さんは、「量子力学」ってご存じでしょうか?

原子よりも極微の世界、素粒子の物理学です。

モノが大きい状態、私たちの日常の世界では、ニュートン力学が有効なのですが、極微の世界では、力学の理論がまったく変わることが分かっています。

素粒子=クウォークの世界では、モノは確率的にしか存在しません。

なんじゃそりゃ? ですよね。

これは、位置を特定すると運動量が変わり、運動量を特定すると位置が変わる。
なんとなくのイメージは、固定された存在ではなく、存在確率の霧みたいな存在(専門家の方がいたら、怒られそう、、、)をイメージ頂くとよいかもしれません。
原子のモデルって、中央に原子核があって、衛星みたいに電子が飛び回っているイメージありませんか。あの電子は、粒では存在しません。存在確率として原子核の周囲に在る、という状態です。

この特性で、素粒子を特定する観察者が、素粒子の状態に影響を及ぼします。
つまり、観察するヒトで極微の世界は固定化されます。
このヒトが観察、つまり五識で捉えることで、物質が存在が確定する。(あくまで、極微の世界では、ですが。)

何故か、唯識の考え方に似ているように感じます。

感想まとめ

長文になってしまいました。

私がこの本を読んで思ったのが、仏教って、2500年前にゴーダマシッダールタや、その後の弟子たちが徹底的に、身体と精神の反応のみを捉えて、知性的探求をした、哲学だということです。

そして不思議のなのが、近代西洋哲学や、脳医学、分子生物学、宇宙物理学、量子力学などと何故か似ている。2500年前ですよ!

僕の完全な想像なのですが、ヒトの身体と精神の観察のみで、論理的思考、考察を行うと、真如(真理みたいなモノ)に近づけるのかもしれません。

身体も分解すれば、素粒子でできている。
最新の脳医学では、シナプス電流のパターンだけではヒトの思考は説明がつかず、脳は量子状態にあるとの仮説も出ていています。

その脳を、ヨーガという修行、身体的究極の状態になることで、何か掴めるのモノがあるのかも、と思いました。

それと、仏教には神がいません。

そして修行というHOW TOがあり、誰でも仏陀(悟りをひらいたヒト)になれる。

これはキリスト教やイスラム教にはない特質です。

天照大神と神仏混合で同一視されている大日如来も、宇宙の真理の具現化と定義されていて、神ではない。どちらかといえば、宇宙の真理=宇宙物理や量子力学などの数式 に近いイメージ。

つらつら書きましたが、東洋哲学である唯識論、なかなか興味深いです。

ここに書いたコトは、私なりにこの本を読んで読み解いたコトを書かせていただきました。専門の方からは、それは認識間違ってる、とご指摘頂く認識違いがあるかも知れません。
そこは凡夫たる僕ですので、ご容赦下さい。

本当に長文になってしまいました。
ここまでお付き合いいただいた方々、ありがとうございます。

共感いただけたら、スキ・フォローをいただけると、嬉しいです。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?