大竹伸朗展
「大竹伸朗展」を、観てきました。
人の頭のなかを覗き見しているような背徳感と、観察対象を安全な場所から観察しているような、そんな体験でした。
私が大竹伸朗さんを知ったのは、EGO-WRAPPIN′が2006年に発売した「ON THE ROCKS!」のジャケットだった。
ジャケットに描かれていた作品しか見たことがないまま、「全景1955-2006」を観に行った。
とてもおもしろかった。たくさんのコラージュ作品もそうだし、蛍光色が使われている作品も、つるつるで規則性のないインクのシミみたいな作品群も、私には魅力的だった。
ミスターピーナッツやZAP!、ストラトのポストカードを購入した。
私がつるつるで綺麗だなーと思った作品群は、網膜だった。
とてもいい展覧会を観たと、とても満足した。
だけど、そのあと、当時勤務していた相談所の別の心理士さんは、こう感想を述べていた。
「気持ち悪かった。」
そうか、人それぞれ好みは異なるもんな。
私は観に行ったことを、話さずに終わった。
心理療法のなかで、コラージュは、作業療法や芸術療法として使われることがある。意識しても、しなくても、その人の内側の一部が表現される、と考えられているからです。
作品群を観るなかで、
そのひとは「気持ち悪さ」を受け取った。
同じ作品群を観て、
私は「おもしろさ」を受け取った。
作品を観て、受け取る感想は、自分自身だ。
自分のなかにあるものが、返ってくる。
「気持ち悪い」と思ったそのひとのなかに、何かタブー視しているものや、見てはいけないと禁止しているものが、たぶん、ある。
そのモチーフが、作品群のなかにあれば、それがスイッチとなって、「気持ち悪さ」が発動される。
大竹伸朗さんの作品だけど、作品を観て、見えてくるものは、大竹伸朗さんの一部でもあり、自分自身の一部でもある。
「全景1955-2006」に続き、今回の「大竹伸朗展」でも、たくさんのコラージュ作品群が展示されている。私は、女性や男性のヌードが目に入った。きっと私の抑圧した欲求が反映されているのだと思う。少しの気持ち悪さと、それでも見たいという興味。それが、私が背徳感を感じた理由だと思う。
自分へのタブーが多過ぎたり、強過ぎたら、きっと拒否感を感じて、この展覧会を楽しめないと思う。今回も「おもしろい」と思えた自分が、私は大好きです。
紙には、邪気が溜まるから、溜め込まずに捨てた方がいいと言われるけれど、大竹伸朗さんの作品には、大量の紙類が使われている。
大竹伸朗さんは、邪気を受けないのだろうか。
と、そんなことが気になった。
紙だけでなく、たくさんの物たちも作品の一部として使われている。
ニューシャネルと書かれたドア。
私は霊感とか無いけれど、その作品の前に立ったとき。そのドアの前に立ったとき。
「ぅぐっ!」
と、胸の辺りに、鈍い鈍痛を受けた。
…ような気がしただけかもしれない。
物には感情や記憶がある、と私は思う。
作品にすることで、残る記憶がある。それは、大竹伸朗さんの記憶かもしれないし、大竹伸朗さんの知らない記憶も残るのだと思う。
たくさんの念とも言えるような記憶を、作品にすることで、残す。
それは、供養のような、呪縛のような。
作品として、新たな役目を担うこと。
物としての役目を終えて、処分されること。
どちらが物や記憶にとって、幸せなのだろう。
「層 Layer/Stratum」のエリアの案内文に、次の文章が書かれていた。「大竹は、かつてロンドンの街頭で見たポスター貼りの職人を見て興奮した記憶について語っています。ポスターが貼られた壁の上からそのまま次のポスターを貼っていくと、時間の経過が蓄積されるとともに、覆われた下層が消えていきながらも気配を残す。その下層の気配こそ重要だと大竹はいいます。」
これを読んで、人と一緒だと思った。
凡人な感想だけど、人生と一緒だと思った。
いろんな経験を重ねて、年齢を重ねて、
日々変化していくけれど、重ねた自分は消えない。
日々積み重なって、ここにいる。
無駄な経験は、ない。
私の「層」が、愛おしいです。
「大竹伸朗展」の公式サイトで見ることができる動画のなかで、
大竹伸朗さんが「時間をかけるってことじゃなくて、1秒でできるものもあれば、10年でできないものもあって、それは、もう、同等なんだよね。自分のなかで。」と話していた。
価値は、無限。
価値の判断基準がある方が、わかりやすいけれど。
それは、本当の価値を見えなくするかもしれない。
自分で勝手に作ったルールに縛られない。
誰かに作られたルールに縛られない。
自分をもっと広げていく。
それが芸術なんだ。
「アートは、常にアート以外の場所に現れる。」
私の生き方も、あなたの生き方も、アート。
「行きつくとこ、ひとつ。」