和魂洋才の変革
今日のおすすめの一冊は、伊勢雅臣(まさおみ)氏の『この国の希望のかたち』(グッドブックス)です。その中から「グレート・リセット」という題でブログを書きました。
本書の中に「和魂洋才の変革」という心に響く文書がありました。
近代物質文明は西洋文明が生み出したものであり、その血を引いていることがわかります。 西洋文明の本質には、自然との和、共同体の和を無視、あるいは軽視する性格があるのではないでしょうか。
西洋文明を生んだキリスト教的世界観では、 自然は人間に支配されるものと見なしています。近代物質文明はその自然観をさらに徹底して、石炭、石油など地下資源を大量に採掘し、世界各地の豊かな森を切り開いては単一作物を植える大規模農業を展開しています。
また近代物質文明では後進国を植民地化したり、自国内でも農民や労働者階級を搾取して大量生産システムを発展させてきました。これは共同体の和を無視した所行でした。この近代物質文明の最優等生となった現代日本が自然との和、共同体の和を喪失し、そ の結果、人間本来の幸せを見失った青年たちが将来への希望を失った、というのもまた当然と思えます。
これらの問題認識から、日本文明が大切にしてきた「和」をテコとして、近代物質文明を次の段階に進化させようと提言しているのですが、実はこうした文明的な進化は、 日本人にとって初めての挑戦ではありません。
漢字、仏教、儒教など大陸文明を何世紀もかけて咀嚼吸収し、それらをも栄養分として日本文明を築いた成功体験を、我々の先人は持っているのです。 たとえば漢字は中国では限られた知的エリートの専有物でしたが、我が国では漢字からひらがなを生み出して、それを用いた世界最初の長編小説『源氏物語』が女性によって書かれ、また百人一首や連歌などの形式で一般大衆が文芸に親しむようになりました。
仏教でも、当初大陸から流入した古代仏教では難解な仏典を講究する、ごく一部の僧侶しか近づけないものでしたが、法然や親鸞によって、凡夫もただ念仏を唱えることによっ て往生できるとする、一般大衆にも近づきやすい仏教に変革されました。
論語も中国では朱子学のような知的エリートのための観念体系に発展していきましたが、 我が国では「それは孔子の本来の言葉から離れてしまっている」という批判が伊藤仁斎などから出され、市井でも寺子屋で多くの子供たちが素読を通じて、論語に親しみました。
このように漢字、仏教、儒教という大陸文明の産物は、我が国に移入されるや、縄文以来の和の土壌に適合した部分のみが選択され、あるいは改変されて根を張っていったのです。和の大地は、こうして大陸からやって来た異国の植物も仲間に入れて、より多様な、 豊かな森を育てました。
我々の先人は、こういう偉大な成功体験を持っているのです。それをもう一度、繰り返して、近代物質文明の優れた特質を和の大地に適応するかたちで進化させ、それらも加えて新日本文明を築くことが、現代日本人の使命と考えます。
それは前回と同様、数百年も かかる挑戦でしょうし、また少数の偉人天才に任せておいて良いものではなく、一般大衆が力を合わせて進めていくべき責務です。それが我が国の変革の原理なのです。
本書でご紹介した多くの試みは、たとえば体験農業や農水産物の直売所など、一般国民が自分の生活の中で、なんらかの取り組みができるものが少なくありません。そうした、 小さくとも無数の努力が積み重なって、新日本文明が徐々に姿を現していくでしょう。
その道を指し示しているのが「一隅を照らす。これ即ち国宝なり」という最澄の言葉です。我々が小さな灯火として周囲の一隅を照らす。その灯火がたくさん集まって、国家全体を明るく照らし、青年たちも将来への希望の灯りを点すことができるようになると思います。
このパンデミックにより、世界はもとより日本は大きく変わりました。まさに「グレート・リセット」するときがいよいよ来たのです。今までの価値観をリセットし、新たな価値観に書き変えなければ生き残れないということです。
しかしながら、そこには松尾芭蕉のいう「不易流行」の考え方が必要です。変えなければならないところは変え、変えてはいけないところはしっかりと守る、ということ。それは別の言い方をすると「和魂洋才」です。
すなわち今こそ、日本古来の精神性を大切にしつつ、西洋のすぐれた知識や技術を融合し、発展させるときだと思います。
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