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一隅を照らす人

今日のおすすめの一冊は、高野登氏の『品格を磨く』(ディスカヴァー)です。その中から「働く人を成長させてくれる仕組」という題でブログを書きました。

本書の中に「一隅を照らす人」という心に響く文章がありました。

昔々、魏(ぎ)の国の王様が斉の国の王様と、あるところで出会いました。さっそく魏の国の王様は、斉の国の王様に自慢話を始めました。私の国には夜も照らすような大きな素晴らしい珠(たま)が十個もあると。
斉の国の王様は答えました。「私の国には、そんな素晴らしい宝物はありません。私の国にあるのは、農業なら農業、こういうものをつくるといったら、それをつくる、物を運ぶ仕事なら物を運ぶ、一つひとつの仕事をだれよりも一生懸命やって一隅を照らすような人たちです。そうした人たちこそが、わが国の宝です」
それを聞いた魏の国の王様は、斉の国の王様の前に手をつき、ひれ伏しました。この中国のお話をもとにしたのでしょうか。天台宗の開祖、最澄は、その本の中で、次のように記しています。 「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」
すなわち、「お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精いっぱい努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何もにも代えがたい貴い国の宝である」と。「一隅を照らす」という言葉はここから生まれたとされます。
斉の国は、いまから二千五百年も前の中国の国、最澄は平安時代の人ですが、そこで言っていることは、いまも変わらぬ真実です。と同時に、ここで注目すべきは、斉の国の王様の言葉が、魏の国の王様の中に、思わずライバルの前にひれ伏すほどの「パラダイムシフト」を起こしたという点です。
魏の国の王様の世界観、人生観を変えたのです。それまでは、国にある見事な珠こそが国の宝だと思っていたのが、国の民こそが何よりの宝であると気づいたのですから。 自分の足下にあるものと向き合ってみようという姿勢、自分の民と向き合おうという姿勢、まさに、王者の「品格」です。
もし、組織のリーダーがいっしょに働いているメンバーと本気で向かい合って、この人たちこそがこの組織の宝物なのだ、わが社が誇るべきは、立派なビルでも商品でもなく、この人たちなのだと気づいたとしたら、そのリーダーは「品格」を持ちはじめたことになります。 と同時に、組織全体が「品格」を持ちはじめるのです。

「一燈照隅 萬燈遍照(いっとうしょうぐう ばんとうへんじょう)」 安岡正篤師の『青年の大成』の中の言葉です。 一人ひとりが自分のいる場所を明るく照らし、良きことを行えば、その一燈が最初は小さくとも、やがてそれが国中をあまねく照らすことになる、と。

まずは、自分の周囲、つまり、家族や友人、会社を明るく照らすこと。それがやがて「世のため、人のため」となります。「明珠在掌(みょうじゅたなごごろにあり)」 という禅の言葉があります。誰もが、はかり知れない価値のある宝物をすでに持っているのです。そんな貴重な宝が、自分の手の上に載っているではないか、と。

そんな大事なことを忘れ、我々はどこか他のところに宝が埋まっているのではないかと、探しに行ってしまいます。会社で言うなら、規模や売上、店舗数などの大きさではありません。 人も同じで、肩書や、役職、地位や年収などではないのです。 外見ではなく本質ということです。 本当の宝は、その掌(たなごころ)の上にあります。一隅を照らす人でありたいと思うのです。

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