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「才」より「徳」

今日のおすすめの一冊は、田中真澄氏の『“修身現役”で生き抜くための条件』(ぱるす出版)です。その中から『「引き」のある人生』と題してブログを書きました。

本書の中に『「才」より「徳」』という心に響く文章がありました。

「徳」という言葉が人々の口から消えつつあります。「徳」について話をしようとすると、場の雰囲気が急にしらけてくるほど、日常会話で徳の話は今や話題の対象外になってしまいました。 

それはどうしてなのでしょうか。 徳とは人間性・心構え・人格・品性・人柄といったように表現する人間力の抽象的な概念です。 その対立概念である「才」について併せて考えると分かりやすいと思います。

「才」とは、スキルと言ったほうが理解しやすいように、才能・技能・技術・資格といった実績・ 達成度・順位など数値化や図表化ができ、耳目でわかる能力を指します。私たちは毎日の仕事や勉強やスポーツで、人々との間で才能や技術を競い合っています。その 競争の結果に対して一喜一憂しながら生きているのが昨今の世の中です。

それだけに「徳」とい う抽象的な人間力よりも、具体的な「才」に関心が高まるのは仕方のないことかもしれません。 しかし組織のリーダーとして全体の成果を出していくには、「才」よりも「徳」にウエイトを置いた生き方が求められることは昔も今も変わりません。

プロ野球界の名監督として名をはせた川上哲治氏や野村克也氏が愛読した『菜根譚』(岩波文庫など多数、7世紀の中国明の時代の洪自誠が著した人生の指南書で儒教・道教・仏教の3つの教えが融合した処世の道が説かれている)に「徳は才の主にして、才は徳の奴なり」(徳は主人公で、才能は 召使いである)と示されており、徳と才の関係が明確に示されています。 

また『論語』には「徳は孤ならず、必ず隣あり」(徳を大切にしている人には、必ず支援者や応援者が現れる)という一文があり、孤独な環境に身を置かざるを得ない多くのリーダーがこの言葉に勇気づけられてきました。 

こうして徳の重要性は古今東西、心ある人はずっと認識してきたのです。ところが世の中には 「才」を磨く機会(○○研修会などの技能研修)は盛んですが、徳を磨く機会は多くはありません。 

また世間は徳を磨いても、それがすぐに収入増につながらないので、どうしても徳を軽視する人が増えていくのです。 でもこの世間の雰囲気に飲まれてはなりません。徳を磨く機会を見つけ、自分の努力で徳を磨き続けていけば、そのうちに必ずや人様からの「引き」に繋がります。

その結果、引きが縁となって才をも磨くチャンスにも恵まれるものです。徳を磨く研鑽を重ねた結果、人生を大きく好転していった人々のケースを、私はたくさん見てきました。 

一方、自分の損得ばかりを優先し、徳を学ぶことを忘れてしまうと、それが人生上の大きな損失につながるものなのです。物事の実施に失敗した人々を観察していくと、そこに徳の欠如が見られることを、徳を学べばすぐ気づけるようになります。

中国明代の儒学者である呂新吾(ろしんご)が 名著『呻吟語』で語っている。

深沈厚重(しんちんこうじゅう) 是第一等素質 
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等素質 
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等素質
 

第一等の人物は、深沈厚重 どっしりと落ち着いて深みのある人物。 細事にこだわらない豪放な人物は第二等。 頭が切れて弁の立つ人物は第三等である。 (安岡正篤)

才気走って、ペラペラと弁の立つ人は 信用がない 頭の良さをひけらかす輩(やから)も 胡散臭(うさんくさ)い。 豪放磊落(ごうほうらいらく)な人物は まだまだ危なっかしくて駄目だ、という

才が目立つ人や、才気走った人は、あまり人が寄りつきにくくて、敬遠しがちだ。隙や愛敬がないからだ。

「徳とは無類の明るさのことである」といったのは安岡正篤師。明るく、人好きで、世話好きで、人に尽くすことができる人が徳のある人だという。

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