新卒一括採用の「タテマエとホンネ」
今日のおすすめの一冊は、山口周氏の『ビジネスの未来』(プレジデント社)です。その中から「人生を見つけるためには」という題でブログを書きました。
本書の巻末に非常に興味深い一節があったので、シェアします。
教育現場におけるさまざまな取り組みが最終的に無効化される原因は、教育プロセスよりも、プロセスの出口に位置する就職活動およびその後に続く経済活動・社会活動の中にこそ潜んでいると思います。どういうことでしょうか。それは、《ホンネでは誰も個性的な人材など望んでいないから》という理由に尽きます。
社会の大勢は個性的な人材など望んでおらず、むしろ真逆である従順で実直な人材を望んでいます。そして、この「タテマエとホンネ」の欺瞞を子供たちは見抜いており、だからこそ創造性や個性を育む教育が茶番化して空回りをし続けているのです。
《新卒一括採用というシステムの終焉》このような指摘に対しては、もしかしたら「いや、そんなことはない。自分は個性的な人材を本当に求めている」という反論があるかもしれません。しかし「社会の多数派は個性的な人材など望んでいない」という「オトナのホンネ」を示す社会のルールや仕組みはそこらじゅうに見つけ出すことができます。
たとえば「新卒一括採用」と言う、世界的にも類を見ない異様な採用方式がいまだに続けられているのはなぜでしょうか。新卒一括採用というのは「皆と同じ時期に、皆と同じような活動をして、皆と同じ時期に入社する」ことが前提となっています。しかも採用する個の企業はご丁寧に「採用活動の解禁日」まで足並みを揃えるというような奇っ怪なことまでしている。
このように採用方式を主要な人材獲得の手段としているということはつまり「社会のルールに同調できないような“個性ある人材”はウチにはいりません」と言うメッセージを送っているのと同じことです。最近はどの企業も判で押したように「変革を自ら主導できる個性的な人材を求める」といった個性のかけらもないメッセージを労働市場に送っていますが、新卒一括採用という採用方式をとりながら、このようなメッセージを発信していること自体が自己欺瞞そのものです。
評価には必ず「精度と時間のトレードオフ」が発生します。短期間に評価しようとすればどうしても精度が犠牲になり、精度を高めようとすればどうしても時間がかかる。特に「個性」や「創造性」といったパーソナリティに関わる要件は、ペーパーテストで評価することができないため、高い精度でこれを評価しようとすれば膨大な時間とコストがかかることになります。
受験勉強で試されるような問題解決の能力はいうまでもなく「知識」と「スキル」に該当し、これは相対的に外部から評価しやすいため、新卒一括採用においても評価が可能でしょう。一方で、個性や創造性というのはコンピテンシーや動機・パーソナリティに関わる項目ですから、短期間に外部から評価するのは非常に難しい。
なぜ、コンピテンシーという概念が提唱されたかというと、親の学歴や収入に大きく影響されてしまう知識やスキルで人材を評価すると社会の格差を拡大再生産してしまうという問題意識があったからです。高額の塾の費用を負担できる家で育った子供とそのような環境にたまたま恵まれなかった子供では「知識」と「スキル」に差が生まれてしまうのは当然に想定できることです。
したがってこのような項目に頼って選抜を行っている企業の採用担当者は、社会の不公正を拡大再生産するエンジンをまさに担っているということです。このような不公平の影響を表白するためにコンピテンシー、すなわち「ある局面に向き合った時、どのようにしてその問題を処理しようとするか」という思考特性・行動特性を測ることで人材を選抜することを唱えたわけです。
現在では、特に海外の企業ではインターンを通じた採用が一般的になっていますが、なぜインターン形式が主流になっているかというと、実際の仕事ぶりを観察してみないとコンピテンシーやパーソナリティはよくわからないからです。
日本の大手企業では最近になってようやく「終身雇用は難しい」「定年まで雇用できない」などと言い始めました。雇用の流動化が始まったのです。戦後の教育は、工場で大量生産するために必要とされる人材が求められていたので、今のような画一的で、記憶したことを正確に再現するような教育になったと言われています。それが今でも変わらずに続いているわけです。
創造的で個性ある人材を採用するとなると、企業の働き方の改革が必要となります。副業はもとより、上下の関係ではないアライアンスを組むという「リンクトイン」のような経営になっていくと言われています。(このことに関しては以前ブログに書いたのでご参照ください「アライアンス、人と企業の新しい関係」)
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