【あそびごころ探究#1 】スーパーボールエネルギーの生成と衝突に敏感でいたい
こんにちは、ひろのです。
コーチングの学びを通じて、人生っていうものにこれまでより細かい粒度で向き合いはじめておよそ1年。あそびごころなるものが人生のマインドセットとしてとっても大切なのでは?!と至り探究をはじめました。
はじまりのnoteはこちら。
そんなnoteを出したら、コーチング仲間のよっちゃんが声をかけてくれて、さっそく翌日に一緒にあそびごころを真ん中において対話をしました。
まさにそうだね!とうなずきあったこと。
それは、あそびごころのあるエネルギーって軽い。まるでスーパーボールみたいにはねてる。
1個のボールが長く跳ね続けているというより、きっかけになってポンポン生成されつづけるのかもしれない。それをひらいた形でやってると、思わぬところで繋がってだれかのバウンドしてきたボールが自分にあたったりする。
軽いというのは、人間のどろっとしたものが含まれていなくて気軽にうけとれる感じかもしれない。精査しなくてもいいね!と言えちゃう感じ。
今回も、わたしのスーパーボールにあたったよっちゃんが、自身がまるでスーパーボールになったかのようにぽーんときてくれた。
スーパーボールは特別なものではなくて、気づいたときにはもう生まれ落ちてどこかにはねていっているし、気づいたときにはもうどこかからとんできたものが軽く当たっている。それってコントロールできなくて、そしてそれが重要で。だからきっとその瞬間に気がつくことが大切なのではないだろうか。
そこで欠かせないのは身体感覚なのかもしれない。神経。瞬間の「今ここ」とつながる入口。よくわからなくても手を動かしてみることも、直感による判断も。
そしておもしろいのは、1回目のnoteで書いた思い出を思い出すとき、当時の身体感覚を伴って思い出すから、ほかより強く印象に残っているのかもしれない。
さらに身体感覚と感情と行動が合致しているときかもしれないな、とも書きながら思い直す。
ついつい思考によってあれこれ考えあぐねるけれど、はじまりからおわりまで当たり前にあるこの身体のこと、あまり注目してこなかった。この身体でもって生きていることになるにもかかわらず。あれあれ、灯台下暗しである。
春に参加していた自分の中にARTをもてワークショップでも、手をデッサンしたときに「もう全部ここにでちゃっているじゃない」とうなだれた体験を思い出す。
少し、身体感覚にアンテナを立てながら、引き続きいろんな角度からあそびごころにスポットライトをあててみたい。
P.S.:あそびごころを忍ばせたいわたしに、ついぞ、わたしの大きな未完了である運動や瞑想を習慣化するときが忍び寄っている気配…
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