『これはただの夏』
棒を持った指に、ほんのり冷たい、なめらかなクリームが伝う。うかうかしていると、溶けて崩れて、なくなってしまいそうな。プール終わりにねだって買ってもらった、自販機のアイスが、まず思い出された。弟と味の違うものを買ってもらい、夢中でかじりつく。水で冷えた体の表面とは対照的に、少し火照った体の内奥を冷やすように。一口、二口と口に含んでは味わっていく。
それはとても甘くて満たされるが、喉を過ぎれば、その後味は意外なほどにあっけない。もう一度思い出そうとして残りのアイスを頬張るが、初めの一口を超える感動はそこにはない。
主人公の“ボク”は、付き合いで参加した結婚式で優香という一人の女性と出会う。
酒の力もあり、意気投合した二人は朝まで歩いて語り合い、ファミレスで朝を迎える。その後、一緒に結婚式に参加していた友人の大関から、優香が風俗嬢であることを知らされ、その店にも出向くが体の関係は持たず、語り合い、時には優香の手作り弁当を二人で食べる。
同時にボクは、同じマンションの同じフロアーに住む明菜という少女と出会う。母が水商売をやっている明菜はとても大人びていて、しっかりしている子供だ。明菜と優香もボクを介して出会い、なんとなく三人の夏が始まっていく。
夏の市民プール、明菜の食べるピノ、優香お手製のおにぎりと唐揚げのお弁当。
ボクの部屋で明菜が作ってくれるチャーハンや、ボクが振る舞う、焼きそば。
文章のタッチが、ほとんどフィクションを感じさせない、リアルで自然な語り口だからか、出てくる料理達も妙に親近感が湧く。強烈に食欲を刺激するような、そういう刺激的なものではなく、きっと読者がそれぞれを、どこかで食べたことのあるような、そんな不思議な吸引力がある。
夏休みのお昼に母親が、冷蔵庫のあり合わせの食材で作ってくれた、あのご飯に近い。「うまい」と口にするほどではないけれど、胃から喉から体に染み込んで、多分もうすでに僕らの一部になっている、そんな味だ。そんな夏が記されている。
物語の最後、ボクの周りの人間はことごとく居なくなる。
優香も消え、明菜も消え、友人の大関も大病を克服できずに、亡くなる。
彼らはボクの前から消えてしまった。ほとんどその痕跡を残さずに。
しかしそれは夏に降った急な雨のように。あるいは、毎年終わることがわかっているのにやってくる“夏”という季節のように、確かにボクのそばに存在したし、その“味”はきっと体に染み込んでいる。ボクはそれまでと同じ生活に戻っていくが、まるっきり同じにはなり得ない。夏という季節同様、一度彼らを経験した“ボク”しか存在していない。
そう、これはタイトルの通り、ただの夏の物語だ。
ただの、どこにでもある、なんとなく始まりなんとなく終わる、いつもの夏だ。
妙な爽快感と、物悲しい虚無感を残して、『これはただの夏』は僕の心を過ぎ去っていった。
また来年、読み返してみたい小説だった。