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何のため、誰のために良い子でいるのか

上手くやって行きたい
きっと誰しもそう思っている

「上手く」の定義は
人によって違うかも知れない
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「上手くやりたい」の前提は
人によって違うかも知れない

私はいつ頃からか、気がつけば
『失敗することは恥ずかしい』
と意味付けをしていた
失敗を恐れ
チャレンジを避ける行動もとった

誤った意味付けをしてしまったことで
自ら、経験の場を奪ってしまった

そして姉という開拓者を見て育った
何をしたら怒られ
何をしたらガッカリされ
何をしたら親の気を引けるのか

だから、そこそこ

上手くやる事ができた
顔色を伺う事ができた
相手の意思を尊重してきた

上手くやれていた つもりだった

開拓者が整備した道をスルリと通り
スパイの様なずる賢さも身に付け

『親にとっての良い娘』
この枠に収まらなければ
無意識にそして意識的に縛られていた
縛り続けていた

いま、何を思うかと言えば
自ら開拓をしてくるべきだった
相手のイエス(正解)ではなく
自分の欲望を探求してくるべきだったと

上手くやるだけが、正解じゃない
始めから上手くやろうとしなくて良い

『上手くやる』ことだけが人生ではない
『泥臭く、みっともなくても』
『普通から、はみ出すことでも』

《自分にとっての最幸を探す》

そもそも、ふつうなんて無いのだから
当たり前が無いように

失敗は恥では無い

なかなかこの呪縛は簡単には取れないけれど

そう思える様になったのも
上手くやろうとしてきた経験があったから
無駄なことは1つも無い

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