子どもと接して見えてきたこと。本質にある純粋性を思い出そう。
子どもと接していると、一緒になって遊んで癒されるし、自分の持っている枠を壊される感じがします。
それが楽しいところであり、大変なところでもあります。
休日に久々の家族旅行へ行きました。甥っ子も参加していて、彼がみんなの輪の中心です。
彼が初めての甥であり、もともと下にきょうだいがいなかったこともあって、私にとって不思議で尊い存在です。
自然豊かなところへ行ったので、家族みんなでお散歩をしました。
そして、散歩中色んなものとの出会いが…
小さなカエル、バッタ、ちょうちょ、とんぼ、コイ、げじげじ、カメムシ、色んなきのこ、色んな野花、シマヘビ、とかげ、ガ、クモ
小さな生き物たちです。
大人だけで出かけていたら、きっとこんなに盛り上がらなかったであろう出会いを、甥っ子がいることでみんな探すし、見つけるし、喜ぶ。
『カエルさんだー!』
『ちょうちょ〜ちょうちょ〜🎵』
と笑顔になったり、歌ったり。
とーっても癒されました🌿
自然と触れ合って、小さな発見に心が動いて、観察したり、追いかけたり。
子どもはときめき上手で、大人も感化されてときめき上手になっていくような感じがします。
都合上、子ども、おとなと分けて考えるけれど…本質的には違いはないと思うんです。身体的・精神的な違いや、経験値の違いはあれど、もっともっと根本的に捉えた時には同じ。
「大人になって純粋じゃなくなった」
「大人になってつまらなくなった」
「大人になって頭が固くなった」
それは表面的な部分であって、本質的には何も変わってない。純粋なままの私たちがいる。
そして、散歩していると、危険を警戒しなきゃいけない場面や、「いけないよ」と教える場面も出てきます。
難しいなと思ったことの一つに、「お花や生きものを乱暴に扱ったらいけないよ」があります。
例えばですが、アリに水をかけたり、草花を引っこ抜いたり…
それってどのくらいいけないことなんだろう?その残酷性や好奇心を否定するのも違うし、綺麗なお花を持ち歩きたいという欲求もわかるし否定できない。
何がイケナイコトで何がイイコトなのか、自分の中でも分からなくなります。
『それって本当?』と頭の中に響きます。
“おとな"は大人なりの考えで色々と思ったり言ったりするけれど、それが自分自身を縛ってしまっていることもあるし、正解がない、もしくは、正解がいくつもあることの方が多いですよね。
そんなこんなで…
子どもに対してだけでなく、自分の中にいる純粋な存在に対しても、頭ごなしに考えを押し付けるのではなく、その時その時向き合って、一緒に考えていくしかないんだな、と思いました。
さあ、自分の中の純粋性を思い出していきましょう。その方が生きやすい時代がやってきていると思います。
Hiromi.